印象力の強い言葉には用心深く接するほうがよい

仕事ために、農業や環境関係の本を読むことがある。正直に言って、思いこみやイデオロギーが強く、事実を誇張したり、無視したりした議論に辟易させられることが多い。しかも、そういった議論が、世の中にまかり通り、他の分野では立派な専門家である人が、そういった議論にあっさりと与していることがある。「王様は裸だ」と叫びたくなることがよくある。
自分は農業や環境については、ある程度専門的なこともわかるのでこのような感想を持つが、同じようなことはどの分野でもあるかもしれない。
農業の分野では、生源寺眞一という人(畏れおおいので、以下、先生)の本を読むと、そのまともさにほっとする。先生の意見にすべて賛同するというわけではないけれど、なぜ、そのような意見に至ったのか、ということが論理的に理解できる。先生のようにまともな人が、農業のような分野で、まっとうに生きてこれたということに、驚き、感動する。
「よくわかる食と農のはなし」(家の光協会 asin:4259517996)という本に、直接農業について語ったところではないが、先生の人柄がよくわかる一節があるので引用したい。

 印象力の強い言葉には用心深く接するほうがよい、と思う。たとえば、これは数年前のことだが、「知的戦略」というフレーズがいわば決め言葉として使われている経済政策の書物に目を通していたことがある。「セーフティネットの再構築を起点とする制度改革という我々の知的戦略」といった調子である。「知的戦略」というフレーズによって、あるいは納得の度合いを深めたという読者もおられるかもしれない。残念ながらというか、私の場合は逆である。どうも言葉の印象力にたのんだ議論だなと感じた途端、これは信用できないという気分になる。いったんこうなってしまうと、かりに内容がよさそうなものであっても、頭がなかなか受け付けない。

先生は奥行きが深い人だから、このように高度な皮肉を使っているけれど、私風に言えば、身に付いてない言葉を使うほどバカっぽく見えることはない、ということだと思う。
「印象力の強い言葉には用心深く接するほうがよい」ということは、誰かの文章を読むときよりも、自分が文章を書くときの方が、よりいっそう用心深くする必要があると思っている。