二人の言葉に共通なもの

昨日のウェブログ(id:yagian:20070618:1182139306)の続き。
広津和郎は、「同時代の作家たち」(岩波文庫 ISBN:4003106946)のなかで、芥川龍之介との関係について次のように書いている。

 ただそれほど平生は深いつきあいをしていないのに、何かの会合で会う事があると、よく彼は「おい、君、一緒に並ぼう」といっては好んで私と隣り合せに腰を下ろした。それは同じ時代に東京の中学生だったために、二人の言葉に共通なものがあったからかもしれない。高等学校には高等学校の言葉があり、大学には大学の言葉がある。そして中学には中学の言葉がある。彼と私は同じ中学ではなかったが、しかし同じ年代に東京で中学生活を送ったというところから、ヤンチャな物のいい方が何の註釈なしにお互いに通用する。その言葉で無遠慮に話し合う事は、たしかに気易くて一種の快感なのである。食卓の一隅に二人で陣取って、並み居る連中をカリカチュアにしながら罪のない悪口を囁き合っては笑い興ずるというような事は、東京の少し生意気な中学生の得意とするところであるが、そいうした茶目気分は彼には多分にあり、私にもまた尠からずそれがあったので、そこで二人は顔を合わせると好んで隣り合わせに腰かけるようになったのかもしれない。

ここでの高等学校は旧制の高等学校である。高等学校、大学になると、いろいろな地域から学生が集まってくるが、中学までは地域の子どもたちのあつまりだ。広津和郎芥川龍之介の気易さは、郷土をともにしたという、特別なものがあるのだろう。
広津和郎もいうように、平生は深いつきあいをしていなかったのだろう。例えば、同じ田端に住む芥川龍之介室生犀星の方がつきあいは深いにちがいない。しかし、彼らはやはり肌合いがことなるし、広津和郎とのような気易さはなかったのではないか。
中井英夫「虚無への供物」(創元推理文庫 ISBN:4488070116)に相澤啓三という人が書いた解説に、中井英夫の印象がこのように書かれている。

……優しそうでいて小動物をいたぶるような態度は相変わらずで、交わりは復活することなく終わった

この文章を読むと、こんな同級生がいたような気になっている。もし、広津和郎芥川龍之介が軽口をたたいているところに、この相澤啓三という人がいたら、ずいぶん気を悪くしたかも知れないと思う。
いいところもわるいところも含めて、彼らはなつかしい気易さを思い起こさせるのである。