雅子妃の再就職

これまでも、このウェブログで、雅子妃について何回か書いてきた(http://d.hatena.ne.jp/yagian/searchdiary?word=%b2%ed%bb%d2)。今回、ちょっと思いついたことがあるので、それを書いてみようと思う。
以前にも引用したことがあるが、福田和也美智子皇后と雅子妃」(文春新書 asin:416660466X)から、再び引用しよう。

敗戦の危機に際して、昭和天皇とその腹心たちは、皇室を近代化し、国民的親近感を涵養することを試みた。明仁親王の英語教師としてバイニング夫人をアメリカから招いたのにはじまり、民間から妃選びまでの潜在的なイニシアティブは、昭和天皇にあったと見るべきだろう。
昭和天皇の企図は成功を収めたが、そのために大きな犠牲を美智子妃は払うことになり、さらに犠牲は皇太子に及び、最後に雅子妃に及んだ。皇太子にとって、もっともやりきれないのは、この呪縛の連鎖が、さらに下の世代に続いていきかねないことだったろう。
だた、この連鎖を断ちきるためには、明治以来の皇室のあり方自体の、再検討が避けられない。皇室が今のまま、つまり衆人環視のもとでの、国民的好奇心のなかで消費される存在であるかぎり、美智子さまの生きた二律背反を、生き続けるしかない。
母との黙契を維持すること。妻を守りつづけるという誓いを果たすこと。この二つが両立出来ない、そんな場所に皇太子殿下は今、立っている。

「皇室を近代化し、国民的親近感を涵養する」とは、皇室が日本の一般の家族の近代化のモデルとなる、ということだったと思う。戦前の上流階級では、実の親が実の子の養育に直接手を下さず、乳母や教育係が養育を担当することは一般的だったろう。そして、現在の天皇までは、そのようにして養育された。しかし、美智子妃は、近代的で自立した人間に育てるべく、自らの手で理想と考える育児を行った。この過程で、美智子妃は激しい抵抗にぶつかり、大きな犠牲を払うことになったが、美智子妃と同世代、それ以下の母親からは圧倒的な支持を受けたに違いない。また、一般の家庭で、美智子妃がモデルとして示した育児を行おうとした母親は多かっただろう。そして、その際に、美智子妃と同じような抵抗をうけた母親も多かったはずだが、その時、母親は「美智子さまもやってらっしゃるのだから」と言って、抵抗を弱めることができたはずだ。つまり、美智子妃は、自分が近代化に対する抵抗と戦うことによって、一般の母親のための戦いもしていたということだろう。
それでは、雅子妃は何をすべきだったのだろうか。今となっては手遅れだが、皇太子と結婚しても、外務省を退職せず、働き続けることだったのではないだろうか。美智子妃の時代の女性にとって、近代的な育児の実現が大きな問題だったとすれば、雅子妃の時代には、キャリアと家庭、育児の両立が大きな問題だったし、現在も大きな問題であり続ける。確かに、雅子妃が外務省で働き続ければ、美智子妃以上の大きな抵抗にあだろうが、社会的にも大きなインパクトを与えることができたと思う。産休、育休の制度は普及しても、心理的に十分その制度を活用できないという課題があるが、仮に、雅子妃や皇太子が産休、育休を取ったとすれば、これ以上ないPR効果があったと思う。
雅子妃が精神的に病んでいる原因を想像すると、自分の役割、使命感が見いだせていない、というところにあるように思う。おそらく、結婚するときは、皇太子妃という立場になることで、その立場でなければできない貢献ができると期待し、それが裏切られてしまったのだろう。もし、外務省に勤務し続ければ、プレッシャーは今以上だったとしても、女性のモデルとして、強い使命感を持ち続けることができたのではないだろうか。
今、雅子妃の皇室の公務への復帰が進められている。しかし、皇室の公務に復帰すれば、もとの環境に戻ってしまうため、雅子妃の病気の回復の妨げになるのではないか。それよりは、いまからでも、皇室とは別の、例えば、国際交流基金のようなに職場に再就職した方がよいのではないか。
現在の天皇は、天皇と皇后が二人で公務をこなすことが多い。しかし、昭和天皇の時代を思い出してみれば、皇后が顔をだす機会は限られており、天皇がひとりで公務をこなしていたように記憶している。そうであれば、雅子妃が皇后としての公務を極力少なくし、別の職場に勤めることは十分可能だろう。また、その方が、雅子妃の健康のためにもよいし、子育てのあとの再就職を目指す女性のモデルとなることもできるだろう。