御一新のときどちらの味方をしたのか

東京駅の脇にあるOAZOの丸善で、本棚をみながらぶらぶらしていたら、おもしろそうだったので、おもわず小島毅靖国史観−幕末維新という深淵」(ちくま新書 ISBN:9784480063571)衝動買いしてしまった。内容は、もう一歩踏み込んで書いて欲しいという感じもあるが、以下に引用する後書きの一節で大いに笑わせてもらったので、十分もとは取れたと思う。

 新撰組組長だった近藤勇東京裁判よりひどい一方的な断罪で復讐刑的に斬首し、会津で交戦した白虎隊をふくむ軍人たちのまともな埋葬すら許さぬままに、敵の本営だった江戸城中で仲間の戦死者の慰霊祭を行った連中。靖国を創建させたのはこういう人たちであった。
 その勝者である薩摩藩長州藩系譜を引く平成の御代の首相たちが、近隣諸国の批判をよそに参拝するのは彼らの勝手だが、私は中国や韓国が批判するからではなく、一人の日本国民として個人的感情・怨念からこの施設への「参拝」はできない。(前作で述べたように、「参観」はさせていただいている)ある人たちが「東京裁判」を認めないのと同様に、慶喜追討を決めた小御所会議の正統性を認めないからである。

立川談志が、江戸っ子かどうかの基準は「御一新のときどちらの味方をしたかだ」と言っていたが、薩長土肥には特に縁のない私は、明治維新にはうさんくさいものを感じていて、小御所会議や王政復古、東京遷都とはいったいなんだったのか気になっている。
大正、昭和となるにつれて、明治維新のうさんくささは、徐々に忘れられていったように見えるが、明治時代には、まだ、しっかり記憶に残している人たちがいた。福沢諭吉がその代表だろう。やや時代は下るけれど、夏目漱石も、日本というナショナリズムは持っていたようだが、明治の新政府やそれをつくった人たちには、反感や不信の念があったように思う。西園寺公望に招待された際に、「杜鵑厠なかばに出かねたり」という句を添えて断った漱石は、権力や事大主義への反感もあったのだろうけれど、維新の元勲である西園寺公望を個人的に認められないという気持ちがあったのだろう。
丸山真男は、「日本政治思想史研究」(東京大学出版会 ISBN:4130300059)のなかで次のように書いている。この一節は、江戸時代の朱子学が、徂徠学、宣長学と展開するにつれて、近代意識が準備されていったことを分析した論文の末尾に置かれている。

……抑もこの様にして儒教思想の自己分解のなかに近代意識を探ることに一体如何なる現代的価値があるのか、さうした近代的な思惟こそなぎれもなく現在「危機」をさけばれていゐるところではないのか。現代精神のあらゆる混乱も無秩序も遡って行けば、そこに源泉が見出されるのではないか―。われわれはこの疑問に大してかう答へるよりほかない。まさにその通りである。しかしながら問題は近代的思惟の困難性は果たして前近代的なものへの復帰によつて解決されうるかといふ点に存する。……歴史も決して単なる過去の事実の叙述にはとどまらぬであろう。しかし歴史がなんらかの道学的基準の奴婢となつてゐる間は、如何なる意味に置いても本来の歴史を語ることは出来ない。

この文章は、戦時下に書かれている。この時期、大恐慌に始まり第二次世界大戦にまで至る世界的な危機を「近代」の行き詰まりと捉え、伝統的なアジアの思想によって近代を「超克」することを目指すという議論がなされた。丸山真男のこの論文は、「近代の超克」論への反論となっている。日本の「近代」は、ヨーロッパからの影響だけではなく、儒教思想の自己分解によって準備されたものである。それであれば、近代を「超克」するためには、ヨーロッパとアジアを対置させるだけでは意味はないだろう。また、「前近代」を「超克」することによって得られた「近代」を「超克」するには、「前近代」の朱子学に濃厚にあった「道学的基準の奴婢」に戻ってしまうのでは、「超克」にならないだろう。
現代は、社会主義国の崩壊によって、ふたたび「近代」の超克が求められている。そのとき、やはり、伝統への回帰を主張している人がいる。小島毅のように「伝統主義者」が回帰しようとしている「伝統」も、近代の産物にすぎないということを示し、相対化することは重要だと思う。「近代的思惟の困難性は果たして前近代的なものへの復帰によつて解決され」ないことを示すことになるからである。