青い月

自分で俳句をつくることはしないけれど、歳時記を読むのは好きだ。この前、「合本俳句歳時記」(角川書店asin:4048716484)の夏の部を読みながら、気に入った俳句をノートに書き抜いていた。その中に、こんな句があった。

月青くかかる極暑の夜の町 高濱虚子

この句を読み、こんな風景を思い起こしていた。仕事が忙しい夏の夜、ようやく残業が終わってオフィスを出ると、日中の熱気を吸い込んだアスファルトとビルから熱が放散され、蒸し暑い。それでも、仕事が片付いたことで、やれやれと思いながら空を見上げると、満月が出ている。
そのしばらくあと、東京芸術大学の美術館に
芸大コレクション展「歌川広重《名所江戸百景》のすべて」
を見に行った。名所江戸百景のすべてが公開されており、壮観だった。
そのなかで、「猿わか町よるの景」を見たとき、あっ、これは、虚子の句の風景だ、と思った。しかし、絵をよく見てみると、道を歩いている人たちは夏の服装ではない。たしかに、月といえば秋の季語にもなっているから、この絵は秋の猿若町の風景なのだろう。夏の夜といえば、「両国花火」 のように花火がつきものだ。
この虚子の句は、平凡な写生の句だと思っていたが、月を炎暑の町と組み合わせたところに工夫があった、ということに気がついた。よく考えてみると、月と夏の町はきれいに対比関係にある。乾いて冷たい真空の宇宙空間のなか孤独に輝いている月。じっとりと湿って暑い大気に包まれた暗い地上で人が行きかう町。この対比を発見して、虚子はこの俳句を作ったのだろう。炎暑の夜、空気は湿っているから、月は青いというよりも、オレンジがかった色をしていると思う。しかし、地上の町との対象を際立たせるには、月は冷たく青く輝いていなければならない。
虚子は写生の効用を強調しているけれど、実際には、単純な写生句だけを作っているわけではないということがわかった。