写生とは

ウルトラ・ダラー (新潮文庫)

ウルトラ・ダラー (新潮文庫)

病牀六尺 (岩波文庫)

病牀六尺 (岩波文庫)

ハードカバーでは手が出なかった「ウルトラ・ダラー」を本屋で文庫になったを見つけて、衝動買いをしてしまった。小説家ではない人が書いたノンフィクション・ノベルのたぐいについて小説としてのできばえをうんぬんしても始まらないが、いかにも拵えたような存在感の薄い人物がつじつまが合いすぎたストーリーにしたがって動かされている。この本を読んでいて、結城さんがtextfile.org(id:textfile:20071208:mori)のなかで紹介した森博嗣ウェブログ「リアリティへの2つのアプローチ」というエントリーと、正岡子規が「病牀六尺」で書いた写生に関する文章を思い出した。
「リアリテリへの2つのアプローチ」のなかで、森博嗣は小説を書くときには取材をせず頭のなかで組み立てると書いている。これに対し、結城さんは、知り合いの画家に絵を描く秘訣として「よく見ること」と教えてもらい、「よく見ること」で絵がうまく描けると書いている。また、正岡子規は写生について次のように書いている。

…画の上にも詩歌の上にも、理想という事を称へる人が少なくないが、それらは写生の味を知らない人であつて、写生といふことを非常に浅薄な事として排斥するのであるが、その実、理想の方がよほど浅薄であつて、とても写生の趣味の変化多きには及ばぬことではない。理想の作が必ず悪いといふわけではないが、普通に理想として顕れる作には、悪いのが多いといふのが事実である。理想といふ事は人間の考を表はすのであるから、その人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と陳腐を免れぬやうになるのは必然である。……写生といふ事は、天然を写すのであるから、天然の趣味が変化して居るだけそれだけ、写生文写生画の趣味も変化し得るのである。写生の作を見ると、ちよつと浅薄のやうに見えても、深く味はへば味はふほど変化が多く趣味が深い。…

ウルトラ・ダラー」を小説として読めば、残念ながら「類似と陳腐を免れぬやうにな」っている。繰り返すが、この本は、そもそも「小説」として楽しむことが主眼として描かれていないから、小説として陳腐であってもその価値にはあまり関わりはない。
森博嗣は、子規の言葉では「理想という事を称へる人」になるのだろう。子規は、「理想という事を称へる人」は少なくないと書いているけれど、森博嗣は自分は少数派と書いている。子規が称えた写生文は、日本の国語教育に大きな影響を与えたというが、明治以来の学校教育の成果で「理想という事を称へる人」は少数派になったのだろうか。