社会的自殺

百代の過客―日記にみる日本人 (上) (朝日選書 (259))

百代の過客―日記にみる日本人 (上) (朝日選書 (259))

キーン「百代の過客」のなか「多武峰少将物語」を紹介する章を読みながら、仏教の出家の意味について考えさせられた。例によって引用してみたい。

 ……『多武峰少将物語』には、『高光日記』という別称もあり、……全部で三十ばかりあるたいていの挿話が描いているのは、世を捨てて比叡山に入り、僧となった高光の決意を、その家族が大いに歎き悲しむさまである。
 ……
 ……高光の決意は、世間から完全に孤立して暮らす、あのトラピスト修道士ながらに不撓であった。日記に述べられた彼の行為は、己が原因で起こった他の人々の苦しみを軽視した点、ほとんど非人間的とさえ言える。だが高光の仏道帰依の真剣さを疑うことだけは、誰にも出来ないのである。

釈迦の教えは、冷酷なほど非情だと思うことがよくある。釈迦の弟子たちは、その非情さに耐えられず、釈迦の教えをすっかり薄めてしまった仏教を作り上げてしまった。それでも、仏教のなかには、ブッダの非情さのかけらは伝わっている。キーンは、高光について「ほとんど非人間的」と語っているが、このことは釈迦自身にも当てはまる。釈迦も家族を捨てて出家をし、その後、家族を顧みることはない。
出家によって、生物学的には死ぬわけではないけれども、社会的には自分にとっても周囲の人にとっても死んだも同然となる。出家は言ってみれば「社会的自殺」とえ言えなくもない。だから、高光の家族はその決意を「大いに歎き悲しむ」ことになる。開祖である釈迦が「社会的自殺」を行うことによって悟りに至った仏教は、自殺についてどのような考え持っているのか、あまり耳にしたことがないけれど、聞いてみたいと思う。