美しい文章とは たぶん完結

伊勢物語―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

伊勢物語―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

これまで二回書いてきた「美しい文章」に関するエントリー(id:yagian:20080121, id:yagian:20080122)をそろそろまとめようと思う。
詩と散文との区分と、言葉の詩的な側面と散文的な側面との区分をはっきり分けずに議論をしてきたところに混乱があったようである。後者の区分を、言葉の美的機能と意味機能と呼ぶようにしよう。つまり、言葉が表現する意味内容と独立した美しさ、例えば、リズム、音韻、言葉遊び、文字の形などによる美しさを表象する働き美的機能と呼ぶ。そして、言葉によって対象、意味を表現する働きを意味機能と呼ぶ。
どのような言語表現においても、美的機能、意味機能の双方を持っている。特に、「美しい」と呼ぶべき文章では、言葉そのものの美しさと表現対象の美しさが調和し、つまり、美的機能と意味機能の両者が協調して美しさを実現している。
しかし、現代においては、美的機能、意味機能がそれぞれ純化される方向にある。美的機能が純化されているのが現代詩であり、意味機能が純化されているのが現代の散文である。これは、現代において、抽象画とスナップ写真に分化しているのと平行関係にある。美的機能に純化した現代詩は、表現対象を持たずに絵画として自立した抽象画に相当し、いずれも専門的な作家によって創作されていることも共通している。一方、対象を表現する機能に特化している散文は、誰でも記録のために撮影することができるスナップ写真と共通している。
意味機能に純化している散文でも、美的機能とまったく関係がないわけではない。この私自身のウェブログの殺風景な散文でも、美的機能を意識している。意味が同じであれば文末に同じ音を続くのを避けたり、漢字で書くかひらがなで書くかということを見た目を意識して選択したりする。これは、意味機能だけでこの散文が書かれているわけではない。
一方、「八橋蒔絵螺鈿硯箱」は、「美しい文章」の一つの究極の姿ではないかと思う。この硯箱は、リンク先の解説にも書かれているけれども、伊勢物語の八橋の段をモチーフにしている。この八橋の段の歌「からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ」も、言葉の美的機能の粋をこらしたような和歌だが、硯箱はその美的機能を工芸品としてさらに洗練して表現しているように思う。もはや直接的には言葉を用いていないけれど、この硯箱を見れば、八橋の段を想起し、そして、硯箱と歌の美しさが調和していることを感じることができる。これも、言葉の美的機能を最大限に発揮しているといえるのではないか。