袖を濡らす

それから (新潮文庫)

それから (新潮文庫)

本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

伊勢物語―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

伊勢物語―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

「それから」のなかに、代助が次のように語る一節がある。

「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、おおげさに言うと、日本対西洋の関係がだめだから働かないのだ。……」

代助らしい高等遊民風の浮世離れたせりふではあるけれど、一面の真理をついているようにも思われる。今、自分が、なぜ、このような考えを抱き、このように行動するのか、その源を追求して行くと、明治以来の日本対西洋の関係によって引き起こされた近代化によって生じた帰着するところが大きいような気がしている。自分が夏目漱石の小説に強く引かれるのは、漱石が日本の近代化の最前線に立って格闘していたことにあると思っている。
今はまだ筋道をたてて説明はできないけれど、日本の近代化を考える上では、本居宣長福沢諭吉夏目漱石の三人が重要なのではないかと考えている。日本が明治に入って急速に近代化できたのは、江戸時代にその準備ができていたからなのは間違いない。また、同時に、江戸時代を基礎に近代化が進められたことが、西洋とはことなる日本の近代化のあり方を規定していると思う。本居宣長は、日本の近代化、特に、国民の統合を進める上で一つのイデオロギーを提供した国学の祖として、大きな影響を与えている。福沢諭吉は、江戸時代と明治時代の双方を生きた日本最大の啓蒙思想家として、日本の近代化を体現しているといえるだろう。夏目漱石は明治時代において日本の近代化の矛盾を最も鋭敏に感じ取った作家だと思う。
しかし、夏目漱石はなんとか読めるとしても、本居宣長福沢諭吉を読むには、彼らが当然の教養として考えていたことがらについて知らなすぎることが障害になる。本居宣長を読むには日本の古典を、福沢諭吉を読むには儒学と西洋の啓蒙思想の基礎は知らなければならない。そこで、ずいぶん迂遠なような気もするけれど、少しずつ和漢洋の古典を読むようにしている。古典を読み始めると、これがおもしろい。古典の解説や注釈を読んで、なんとなくそんなものだろうか、と思ったことが、古典そのものを読むと目から鱗が落ちるように納得できる。
以前、本居宣長について書いたエントリー(id:yagian:20060402:1143961734)で、小林秀雄本居宣長」から宣長の「おほかたの人のまことの情といふ物は、女童のごとく、みれんに、おろかなる物也」という言葉を孫引きしたことがあった。そのときは、宣長は率直な物言いをするひとだと感心しただけだった。
最近「伊勢物語」を読んだが、宣長のこの言葉が腑に落ちた。「伊勢物語」でてくる人たちは、「みれんに、おろか」だった。男たちは、袖を濡らして泣いて歎いていばかりいる。それを隠すことなく、女たちへ贈る歌に書いている。現代の私は、あまり泣かない。少なくとも、公的な場所で繰り言をいいながら泣くことはない。しかし、内心では「みれんに、おろか」である。宣長が古典を読んで「おほかたの人のまことの情といふ物は、女童のごとく、みれんに、おろかなる物也」と思ったように、「伊勢物語」の男たちのことを読んでいると、儒学のさかしらと洋学の啓蒙で与えられた「男」という役割で抑圧された「みれんに、おろかな」感情を思い出すことができる。