近代化と婚礼

最近、あまり本を読んでいないし、映画も見に行っていないし、音楽を聴くことも少なく、なにもせずに過ごしている時間が多い。インプットが少ないと、アウトプットすることもなくなり、このウェブログの更新頻度が下がってくる。しばらく更新していないと、そろそろ更新しなければと考える。しかし、好きなことを自由に書くのがこのウェブログの趣旨だから、苦労してネタを探して更新するのも筋違いなような気もするし、インプットせず書くと自分の病状の愚痴めいたことを書き連ねることになるのも飽きてきたから、結局しばらく放置することになった。
だらだらしているのも暇だから、気分転換になるものと思い、「鴎外随筆集」を手に取った。ひとつひとつの随筆は短いから、これだったら苦労せずに読むことができる。また、例によって例の如く気になったところを引用しようと思う。

 婚礼はいずれの国を問わず、古俗の頗牢固に保存せられているものである。それ故唐代の制度の模擬もこれに影響すること少く、また西洋の風俗の輸入も交代を迫り成さずして、並行を馴致した。彼の俗が我の俗を排除して来り代わったのではなく、彼の俗が遅れ至って、我の俗の先ずあるものと並び行われることとなった。
 然るに此に一のイロニイがある。彼のいわゆる会堂贄卓の前の誓いが我に輸入せられた時、彼方にあってはその儀式が漸く廃滅の運に向かっていた事が即ちこれである。何故というに、いわゆるスタンデスアムトの婚礼が国法上伉儷をなすことを妨げぬので宗教上の儀式は夙く独占の威力を失ったからである。
 さて彼の会堂の婚礼が我邦に輸入せらるるに及んで、イロニイは更にイロニイを生んだ。まさに滅びんとする会堂の礼は料らずも新に興る神社の礼の藍本となった。わたくしは敢てこの新礼の是非を言わない。しかし諾冉の二神は定めておもいもうけぬ世話を焼かせらるることよとつぶやき給うことであろう。(pp23-24)

ただし、鴎外の文章なので、註なしで理解するのは難しい。以下に大意をまとめた文章をつけておこうと思う。

 婚礼はどの国でも昔ながらの習俗が固く保存されているものである。そのため、わが国の婚礼も、中国の唐の時代の婚礼の制度に影響されることは少なく、西洋の習俗も取って代わることはなく、並行して行われることになった。
 ここで一つの歴史に皮肉がある。西洋式の教会の前で誓うという婚礼の儀式は、役場での婚礼が法律上許されるようになって、衰えるようになってきた。しかし、わが国では、まさに滅びようとしている教会での婚礼を種本として、神社での婚礼を新たに作り上げた。私はあえてこの新しい礼の是非は言わないけれど、イザナミイザナギの神は、思いもよらない世話を焼かせられることだとつぶやかれるであろう。 

現在では、神前結婚式は、ばくぜんと伝統的な結婚式のスタイルだと思われていて、伝統的なことを好む人は神前結婚式を選び、伝統的なことを古臭い因習と考える人は神前結婚式を選ばないのではないだろうか。事実は、このウェブログで以前に書いた記憶があるが、いわゆる神前結婚式は、キリスト教式の結婚式のスタイルを参考にして、明治時代に作り上げられたものである。鴎外の時代には、まだ神前結婚式が新しいスタイルであることが自明だったから、鴎外自身も皮肉を書いている。
これもこのウェブログで繰り返し書いているけれど、私は日本の近代化に興味がある。一見日本の伝統的な儀礼に見えて、実際は西洋のスタイルをまねている神前結婚式は、日本の近代化を象徴するような事例だと思う。同じように、現代では伝統的なものに見えて、実際は近代の所産であるものは、他にも多いだろうと思う。
鴎外は、まさに、日本の近代化を生きた人である。彼自身は、なにが近代化の所産であり、なにが伝統的なものかがよくわかっていて、近代化の所産を客観視することができた。だから、神前結婚式について、このような皮肉を書くことができる。
「かのように」を読むと、戦前の日本を支配した天皇イデオロギーについて、そのイデオロギーの成立に立ち会っていた人だけが書けるスリリングな論考がでてくる。これだけ危険な論考が発禁にならなかったのが不思議なほどである。

鴎外随筆集 (岩波文庫)

鴎外随筆集 (岩波文庫)

灰燼 かのように―森鴎外全集〈3〉 (ちくま文庫)

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