読書メモ:冷泉彰彦「民主党のアメリカ共和党のアメリカ」

オリンピックが終わると、今度はアメリカの大統領選挙がニュースの中心となる。そんなわけで、冷泉彰彦民主党アメリカ共和党のアメリカ」を読んでみた。民主党と共和党の対立軸について書かれた本である。特に民主党と共和党の思想が文化へ与えた影響について述べた「第三章民主党のカルチャー、共和党のカルチャー」が興味深かった。
例によって印象的な一節を引用したい。

(クリント)イーストウッドの思想は「政府の機能は最小限でいい」といういわゆる「リベタリアン」に属する。連邦政府の肥大化に反対し、税の極小化を求めるというのは共和党の核にある価値観だが、それを極端にまで推し進めるのがこの思想だ。勿論、政府が弱体化しては社会が無秩序状態になってしまうが、これに対するイーストウッド流の回答は個人が倫理的であれということだ。……『ミリオンダラー・ベイビー』の場合は、一人の老いたボクシングのトレーナーに、安楽死や神の問題を背負わせて、これまた「神の不在」を問いながら、その老トレーナーの醸し出す静謐感の中に宗教的な境地を描き出している。
……イーストウッドの場合は、カトリックの信仰への懐疑の念は深い。大自然の中に放り出されて、孤独な自分を見つめながら生きる、そのためには、カトリックの成熟した文化より、古代ケルトの「荒ぶる魂」に惹かれるものがあるのかもしれない。(pp93-96)

クリント・イーストウッドリバタリアンとのそれぞれに興味を持っていたが、二つを結びつけて考えたことはなかった。
この本ではイーストウッドを共和党の文脈のなかで扱っている。もちろん、民主党よりとはいえないけれど、共和党のなかでもイーストウッドは、リバタリアンが異端的なように、彼自身もかなり異端的なのではないかと思う。
リバタリアンについては、ハイエクの「市場・知識・自由」を読んで多少理解が深まった(id:yagian:20080628)。それまでは、自由放任主義がなぜアナーキズムと結びつかず、保守主義と結びつくのか疑問だった。再度、「市場・知識・自由」から重要な部分を引用する。

真の個人主義の根本的な態度は、いかなる個人によっても設計されたり、理解されたりしたのだはないのに、しかも個々人の知性を越えるまことに偉大な事物を人類が達成した諸過程に対する、謙遜の態度である。(p41)

ハイエクリバタリアンの立場は単なる自由放任主義ではない。政府による規制、計画、介入は嫌うけれども、文化や市場といった集団によって自生的に生み出されたものを重視することで、無政府主義とは一線を画す保守主義となるのである。確かに、政府の介入を嫌い、個人の倫理に秩序の源を求めるイーストウッドは、ハイエクに近い立場だと思う。
私自身、ハイエクイーストウッドのリバタニアニズムには大いに共感している。

市場・知識・自由―自由主義の経済思想

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