考証癖

考証癖というとおおげさだけれども、風俗、風習の源や語源に関心をそそられることがある。そして、興にのって、この日記にも、考証めいたことを書くこともある。
岡本綺堂随筆集」を読んでいたら年賀状の話が出てきた。以前、この日記で年賀状について書いたことがあったことを思い出した(http://www.lares.dti.ne.jp/~ttakagi/diary/diary/9803.htm#19980321)。ウェブログに移行する以前、エディターでhtmlを書いていた時代の日記だった。少々長いけれど、人の文章ではないので、著作権を気にすることもない。全文引用しようと思う。

1998.3.21 Sat.年賀状
 今日もいつもの土曜日のように図書館へ本を返しがてら散歩した。目白の図書館へ本を返し、池袋まで歩き、ジュンクドウとリブロで漱石と虚子の文庫本を買った。家までの帰りに雑司が谷墓地を抜けると、ずいぶん沢山のお墓参りの人に会った。お線香の香りがする。雑司が谷の墓地の近くには、精進落としをしたりとか、お墓参りのお花やお線香、桶と柄杓を用意するお茶やさんのような店がいくつかある。今日は、その前にはびっしりと自動車が止まっていた。
 家に帰り、買ってきた「我が輩は猫である」を読んでいると、友人の絵描きから「年始状」が届くというくだりが出てきた。ということは、「猫」が書かれた明治の後半には、年始の挨拶に葉書を出すという習慣ができつつあるが、まだ「年賀状」という言葉は一般化していなかったことになる。
 こんなことが気になるというのも、以前、柳田國男が昭和の初めの頃に書かれた文章のなかで、近頃は年始の挨拶を省略して年賀状というもので済ます人が増え、あまりいいことではない、といっているのを読んだ記憶があったからだ。「猫」の頃から柳田國男の文章の頃までの30年あまりの間で、「年賀状」がすっかり定着したことになる。
 何年か前に、私の通っている会社から、社員同士の年賀状のやりとりは虚礼だから控えるように、という通達があった。私は、自分の個人的な年賀状について会社からとやかくいわれるいわれはないと思い、その通達はまったく無視しているけれど、柳田國男が略式すぎると眉をひそめた年賀状が、50年も過ぎると虚礼だといわれるようになったわけだ。
 以前、伝統というのは、昔から続いていると信じられていることが本質で、実際に続いているどうかはあまり関係ないと書いたことがある。年賀状も、案外、歴史が浅いものだと思った。
 季節はずれのお題でした。

書いている内容といい、やっている行動といい、10年前からさっぱり変わりがないことがよくわかる。あいかわらず雑司が谷界隈を散歩しながら図書館と本屋をめぐって、本についてのあれこれを日記に書いている。
しかし、このころはまだ引用元をきちんと書く習慣がなかった。柳田國男が昭和の初めの頃に書いた文章を探して、家にある柳田國男の本をひっくり返してみたが、とうとう見つからなかった。この文章が書かれているページを開いた情景の視覚的な記憶があるのだが、書名が記憶にない。
探している過程で柳田國男が書いた年賀状に関する別の文章を発見した。「新たなる太陽」という作品のなかの「これからの正月」という文章である。1949年、昭和24年の正月の雑誌に掲載された文章のようである。

……謹賀新年の年頭の葉書、あれが元日の早朝にどさりと一くくり、配達せられて来て子どもらの心をときめかせ、雑煮をいわう片手にいそがしく目を通して、思いもかけなかった遠国の知人のうわさをし出すなどということは、十年前までの最も普通な正月の情景であったが、これがこうなったのは新しい郵便制の、一つの改良に過ぎなかった。その前は松の内も終わりに近く、人が平常の業務に飛びまわっている頃まで、二枚三枚ずつだらだらと入って来ていたのを、誰かが考えついて暮れの二十四五日から受付を開始し、すべて一月一日のスタンプで配達するということになって、急にこの風習は活気づき、同時にまた形式化してしまったのである。戦でこんな挙例が中絶しなかったら、今頃はどんなことになっていたかわからない。(p291)

これによると、戦争中から戦後にかけて、郵便事情が悪くなって、正月に年賀状が配達されるという習慣が途絶していたこと、また、年賀状が盛んになったのは郵便が年賀状を一日に配達するようなサービスを始めたことがきっかけになっていたことが分かる。柳田國男があいかわらず年賀状に反感を持っているのがおもしろい。
さて、冒頭に書いた「岡本綺堂随筆集」の「年賀郵便」という随筆から引用してみる。

 明治の中頃までは、年賀郵便を発送するものはなかった。……知人の戸別訪問をしなければならない。……
 日清戦争は明治二十七、八年であるが、二十八年の正月は戦時という遠慮から、回礼を年賀ハガキに換える者があった。それらが例になって、年賀ハガキがだんだんに行われて来た。明治三十三年十月から私製絵ハガキが許されて、年賀ハガキに種々の意匠を加えることが出来るようになったのも、年賀郵便の流行を助けることになって、年賀を郵便に換えるのを怪しまなくなった。それがまた、明治三十七、八年の日露戦争以来いよいよ激増して、松の内の各郵便局は年賀郵便の整理に忙殺され、多の郵便事務は殆ど抛擲されてしまうような始末を招来したので、その混雑を防ぐために、明治三十九年の年末から年賀郵便特別扱いということを始めたのである。
(pp255-257)

漱石の「猫」がかかれたのは1905年、明治38年である。まさに年賀状の勃興期であり、画家が年賀状を出すということが当時の流行として感じられ、物珍しさもあったので、「猫」のなかで取り上げられたのであろう。そして、柳田國男いう年賀状の改良は、1906年、明治39年からということになる。
このようなことが判明したからとってどうということもないが、独立した本に書かれていた記述同士が結びついて線となるところが、なんともいえず楽しいのである。

岡本綺堂随筆集 (岩波文庫)

岡本綺堂随筆集 (岩波文庫)

柳田国男全集〈16〉 (ちくま文庫)

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吾輩は猫である (岩波文庫)

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