企業のなかの異文化摩擦

もうずいぶん昔の話になってしまったが、大学での専攻が文化人類学だったこともあり、いまだに文化や社会ということには興味がある。
三つ子の魂百までというべきか、若いころに受けた影響というのはバカにならない。若い人には、自分がうける教育については十分吟味して選んでほしいと思う。
それはさておき、文化への興味という意味では、日本文化といった広い範囲の文化伝統への興味もあるけれど、もう少し身近な、たとえば、自分が勤めている会社の企業文化にも関心がある。特に、優秀な企業における企業文化の重要性について語っている「ビジョナリー・カンパニー」や「エクセレント・カンパニー」を読んでからは、自分の会社とこれらの本のなかで語られている会社と比較して、考えることがある。
「ビジョナリー・カンパニー」や「エクセレント・カンパニー」で語られている会社は、カリスマ的な創業者によって特異な企業文化が形成され、その企業文化が従業員に対してカルト的と呼ぶべき強い凝集力を持ち、それが企業の好業績につながっているというストーリーが共通している。
私の勤めている会社は、それとは違った形の企業文化を持っている。従業員の間で、さまざまな意味で特色のある企業文化、価値観、わが社らしさ、というものは成立している。しかし、それはカリスマ的な創業者によって作られたものではない。経営者は、私の勤めている会社の株を持つ親会社から送り込まれているが、経営者が出身した会社の企業文化と、私の勤めている会社の企業文化は大きく異なっており、異文化摩擦と呼ぶべき誤解や意見の衝突が生じているように思う。
佐藤郁哉山田真茂留「制度と文化―組織を動かす見えない力」は、企業の文化的側面に関する研究をまとめた教科書であるが、これを読むと、企業文化の凝集力を強調した当初の企業文化研究から進展した組織文化研究は、一つの組織に複数のサブ・カルチャーを含むことなどを明らかにしていったという。私の勤める会社は、まさに、経営者の企業文化と従業員の企業文化がそれぞれサブ・カルチャーとして存在している。
経営者は、日本の一般的な大企業の出身である。彼らの企業文化は、従業員の組織的活動によって営利を達成することを第一の価値観としている。しかし、従業員の企業文化は、営利や従業員の組織的活動への関心は薄く、ここの社員がなるべく自由に活動し、社会貢献に結びつく成果を上げることによって自己満足を得ることを重視する。経営者は、通常の意味での経営管理を行おうとすると、従業員はそれを自由の侵害として受け取る。また、経営者が企業の成長を目指した方針を示すと、従業員は極めて冷淡な反応を示す。経営者としては、当然ながら、このような従業員の反応にいらだちを示すのである。
経営者は、代々同じ企業から送り込まれてくるので、経営者の企業文化は変化せず再生産される。一方、新規採用者は従業員によって選考され、従業員のなかで教育を受けるため、従業員の企業文化も再生産される。このようにして、企業のなかの二つの文化は摩擦をしながらも、それぞれ再生産され、維持されるのである。
あらためて私の勤めている会社の文化的状況を見てみると、社外から経営者が送り込まれてくるという構造が変わらない限り、このような異文化摩擦はなくならないような気がしてくる。
「制度と文化―組織を動かす見えない力」のなかでは、部署ごとにサブ・カルチャーが存在する組織、ジェンダーによって異なる文化が横断する組織などの例が示されていた。経営者と従業員の間の文化摩擦は、一般的なのだろうか。キャリア制を用いる官庁、本社採用と地方採用が異なる大企業、派遣社員、パート社員を大量に活用している企業、私の勤めている会社のような親会社から経営者が送り込まれてくる企業などでは、階層による企業文化の乖離、異文化摩擦が生じやすいように思う。
そのような組織の実態も観察してみたいと思う。

ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則

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エクセレント・カンパニー (Eijipress business classics)

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制度と文化―組織を動かす見えない力

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