虚構への共感

このところ、調子はそれほど悪くなかったけれど、なぜかウェブログを書く気がなかなか湧かなかった。読書もあまり進まず、インターネットからも離れていた。
かつてはいつも本を持ち歩いていて、ちょっとした隙間の時間があれば本を読んでいた。けれども、最近は、鞄に本を入れていないことあり、電車の中でも本を読まずにぼんやりと立っていたし、会社帰りに本屋をのぞくこともしていなかった。家に帰り、夕食を食べた後は、コンピューターを立ち上げることなく、本を開くこともなく、テレビを眺めていることが多かった。
しかし、ここ一週間ぐらい、ようやく体調と気分の潮目が変わったのか、能動的に本を読もうという気持ちになってきた。金曜日には、大手町にある紀伊國屋書店に寄って、あれこれ本を買い込んできた。
これから読む本を選ぶ時のガイドになるかと思い、小谷野敦「『こころ』は本当に名作か」を読んでみた。冒頭に小谷野は次のように書いている。

……文学作品のよしあしについて議論するのが無駄だとは言わないが、結局それは、学問上の論争ではないし、好き嫌いの問題に帰着せざるをえないのである。あるいはむろん、優れているのは認めるけれども、好きにはなれないということだってあろう。

このように宣言しているだけあって、この本の中での作品の紹介は小谷野の個人的な好悪を中心におかれている。小谷野と趣味があわない私にって、この本はブックガイドとしてはあまり役に立たなかった。福田和也「作家の値打ち」の方が、客観性があってより多くの人にとってブックガイドとして役に立つだろう。
私は「こころ」はおもしろいと思うし、「雪国」の美しさに感動するし、永井荷風の随筆を愛読しているけれど、小谷野が書いたこの一節には思わず笑ってしまった。

……虚構のなかの、恋する女を得て親友を失った男の気持ちにまで、あるいは一、二年に一度新潟のほうへ藝者に会いにいって感慨に耽る男に、ないしは親の金で遊び暮らしながら、美しい江戸が失われていく、などと言っている者に共感する必要がどこにあるのでしょう。

私自身、三十歳を過ぎてから小説が読めるようになったけれど、それ以前は、小説という虚構の世界に共感するということができなかった。高校生の時、学校の課題図書で「こころ」を読まされて、そのおもしろさがさっぱりわからなかったから、小谷野が言いたいこともよくわかる。むしろ、小説のような虚構の世界に共感できるということの方が、普通ではない、なにか異例の状態なのかもしれない。
なぜ小説のような虚構の世界に共感できるのか、そして、ある小説に共感し、また、ある小説には共感できないのか、その理由を真剣に考えようとするとなかなか難しい問題である。