本居宣長の近代性(2)

子安宣邦本居宣長とは誰か」を読み終わった。
昨日のウェブログ(id:yagian:20100525)で、本居宣長物語論に見られる近代性について書いた。同じように、「古事記伝」も、実証的な方法で行われており、近代的な研究の先駆であるとの指摘がある。「本居宣長とは誰か」から引用してみよう。

……日本の神々の伝承において「かみ」として存在する様態を通じて「日本の神」を定義するというのは、近代の神話学的な定義であり、また文化論的な定義ともいえるものです。それゆえこの宣長の「日本の神」の定義は、現代の神道学、宗教学や民族学などの概説や事典でくりかえし引用されます。(p152)

しかし、一方で、本居宣長古事記の研究の背後には、古事記で語られる神々の事跡に対する信仰があった。

まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくただ一すぢなり。然るに此の道、ひとり皇国にのみ正しく伝わりて、外国はみな、上古より既にその伝来を失へり。それ故に異国の道は、皆末々の枝道にして、本のまことの正道にあらず。

 万国を通じて普遍的な「まことの道」がこの皇国日本に存在するのは、その「まことの道」を伝える神代の古伝がテキストとして日本に現存しているからだと宣長はいうのです。
(p162)

本居宣長は、古事記は「普遍的な「まことの道」」を伝えるものと考えていた。近代の観点から見れば、本居宣長古事記へのこのような信仰はナンセンスである(近代の神道家は本居宣長と信仰を共有していたからナンセンスと言い切ることはできないかもしれないけれど)。なぜ、本居宣長には、「近代的」な実証的な方法と「前近代的」な古事記への信仰が両立していたのだろうか。そして、本居宣長と近代における古事記研究の関係をどのように考えればいいのだろうか。
本居宣長にとってみれば、古事記への信仰と実証的な研究は切り離せないものであったろう。古事記に「まことの道」が伝えられていると信じていたからこそ、それをありのままに明らかにするために古事記を実証的に研究することになった。つまり、実証的な研究の前提条件が、古事記への信仰であった。
それでは、近代における古事記の実証的な研究には、なにか前提条件があるのだろうか。
フーコーは、それぞれの時代における知をささえる枠組み(エピステーメー)を明らかにしようとした。近代の古事記研究のエスピテーメーとはどのようなものなのだろうか。
この次は「言葉と物」を読みながら、近代の古事記研究の前提条件、本居宣長と近代の関係について考えてみようと思う。

本居宣長とは誰か (平凡社新書)

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古事記伝 1 (岩波文庫 黄 219-6)

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言葉と物―人文科学の考古学

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