ミシェル・フーコー「言葉と物」の長い旅路

ミシェル・フーコー「言葉と物」を二週間かけてようやく読了した。長い旅路だった。さすがに達成感がある。
臨床医学の誕生」「監獄の誕生」(id:yagian:20100523)も難解だと思ったけれど、「言葉と物」はより抽象的でさらに難解だった。さっぱり理解できない文章が続き、まるでお経を読んでいるような感じだった。でも、フーコーの主張を少しでも理解しようと思えば、総論にあたる「言葉と物」は避けては通れないだろう。わからないなりに読んで、漠然とではあるけれど、フーコーの言いたいことのイメージがつかめたような気もする。原典にあたることの収穫はあったように思う。
一章読み終わるごとに、読書メモ代わりにその章の要約をツイートしてきた。途中で挫折してしまうと、それが知られてしまう。その恥ずかしさを考えて、なんとか最後まで読み通すことができた。その要約をまとめてみよう。


  • この本の目的は、知、観念、学問、認識、合理性を構成する基礎となる秩序、歴史的な「ア・プリオリ」、すなわち、「エピステーメー」の変遷を「考古学」的に研究することである。西欧の文化の「エピステーメー」には二つの大きな断層がある。一つは、古典主義時代の端緒となる17世紀中頃と、もう一つは近代の発端となる19世紀初頭である。「人間」という観念、「人間」に関わる諸科学は、近代の「エピステーメー」とともに現れた。

第一部
第一章 侍女たち

  • ベラスケスの絵画「侍女たち」のなかには、国王夫妻をモデルとして描いている画家自身の姿が描かれている。しかし、国王夫妻の姿は直接描かれず、絵の鑑賞者の位置に置かれる構図となっており、絵の中の鏡のなかにその姿が描かれている。この絵は、古典主義時代において、表象が純粋な表象関係として自立したことを示している。参考:http://tinyurl.com/2farojn

第二章 世界という散文

  • 16世紀のエピステーメーにおいては、類似が知を構築する役割を演じていた。世界は類似の関係を示す記号に覆われ、認識することとはその記号を解釈することである。認識すること、知ることとは、言語に別の言語を関係づける注釈することである。

第三章 表象すること

  • 17世紀初頭、古典主義時代に入ると、類似関係が知の基本的な形式ではなくなる。比較によって物の同一性と相違性を明らかにし、記号の体系によって秩序づけることが知の形式となる。このエピステーメーによって、一般文法、博物学、経済学が現れる。

第四章 語ること

  • 本章は、古典主義時代の言語に関する理論「一般文法」の特性について説明している。16世紀においては言葉に隠された意味を求める「注釈」が行われていたが、古典主義時代になると言語、表象が何を指示しているかを問う「批評」に代わる。言語は線状であり、思考を一挙に表現することはできず、継起的秩序にして表象される。古典主義時代にあらわれた「一般文法」においては、言説がどのような継起的秩序から構成されているかを問題とする。このことから「一般文法」では、次の四つの問題について扱う。語と語を結びつける方法の分析(命題の理論)、その基礎となるそれぞれの語が表象する方法の分析(分節化の理論)、語と表象されるものの関係の分析(起源と語根の理論)、語の変異、意味拡張、再組織の分析(転移の理論)である。古典主義時代の言説の役割は、「物に名を付与し、この名においてものの存在を名ざす」ことである。古典主義時代の言語とは、物に名を与える、すなわち、物を分節して語の体系「表(タブロー)」のなかに位置づけるものである。

第五章 分類すること

  • 博物学デカルト的機械論の没落とともに現れたと言われてきたが、実際にはデカルト哲学と同時期に同じエピステーメー博物学を可能とした。博物学は、自然の諸存在を可視的な特徴によって分類し、体系化する。博物学は、表象を分析し、それらの共通要素を見定め、記号を設定し、名付けるという言語と同じ操作を行っている。その意味で、博物学は言語と言える。

第六章 交換すること

  • 古典主義時代の「富の分析」は、近代の「経済学」とは断絶したものである。この時代にのエピステーメーにおいては、「生産」が存在していなかった。ルネサンス時代においては、貨幣の持つ価値は、それに含まれている希少な金属の価値に求められていた。それは、その時代において、語と物の関係が類似に基づいていると考えられていたことと平行する。古典主義時代に入ると、貨幣はその金属自体の価値ではなく、交換体系のなかで位置づけられる物の価値を表象するものと考えられるようになった。これは、博物学が自然のさまざまな物を体系のなかに位置づけ、命名することと平行している。このように、古典主義時代には「富の分析」が「一般文法」「博物学」と同じ知の配置にしたがっている。

第二部
第七章 表象の限界

  • 古典主義時代のエピステーメーは18世紀末に断絶する。知は、同一性と相違性によって体系化された「表(タブロー)」によって秩序づけられるのではなく、要素間の相互関係によって全体として一つの機能を持つ体系にとって代わられる。この断絶によって「一般文法」は「文献学」に、「博物学」は「生物学」に、「富の分析」は「経済学」になる。物の価値は交換によって位置づけられ、貨幣によって表象されるだけではなく、価値の背後に表象に還元することができない「労働」という要素を想定する。自然の諸物は可視的な特徴によって構成される体系に位置づけられ、命名されるのではなく、内部にある本質的な機能を担う「組織」に基づいて位置づけられる。言語は、表象されるものと語との関係ではなく、語と語の関係、屈折体系に着目する。

第八章 労働、生命、言語

  • 18世紀末になると、「経済学」「生物学」「文献学」の領域で、それぞれ「労働」「生命」「言語」という自律的な組織体が登場し、それまでの「表(タブロー)」による共時的な体系化から、起源や変遷を探求とする「歴史」が検討の場となった。その変化は、経済学はリカード、生物学はキュヴィエ、文献学はボップによって窺うことができる。

第九章 人間とその分身

  • 18世紀末になって認識される客体であり、かつ、認識する主体である「人間」が登場した。この近代の「人間」は、有機体として機能する肉体として認識される客体であり、歴史的に形成された社会的、経済的条件に規制された認識する主体でもある。

第十章 人文諸科学

  • 18世紀末になり、近代のエピステーメーが成立することによって、「人間」という概念が生まれ、集団としての人類がはじめて科学の対象となり、心理学、社会学などの人文諸科学が成立した。人文諸科学のなかで、精神分析文化人類学は、「人間」を規定している「人間」の外部にあるものを探求することで、他の人文諸科学の基礎となりうる。「人間」は近代とともに生まれたものだが、現代において、その終焉は間近いものである。

ツィッターでつぶやいていると、ひとつひとつのツィートは短いけれど、こうやってまとめてみるとけっこうな量の文章になっている。気がついた時につぶやいて、すこしずつ書いて行くのもなかなかいい方法だ。
さて、改めて自分が書いた要約を読み直してみても、全体としてフーコーが言いたいことがわかりにくいと思う。自分が理解した「言葉と物」のポイントを、再度まとめてみようと思う。
「言葉と物」は、知の枠組み(エピステーメー)の変遷、ルネサンスバロック(古典主義時代)、バロックと近代の断層について語っている。
ルネサンスでは、知は類似というものを基本としていた。なにかを理解するということは、その物に類似したものを対比させることである。例えば、植物を理解することは、植物を人間と対比させ、枝は手、根は足、葉脈は血管、というように類似関係に着目する。
バロックにおける理解とは、全体の体系(フーコーは表(タブロー)と呼んでいる)を組み立てて、個別の物をそこに位置づけることである。例えば、植物を理解することとは、植物をいくつかの特徴によって分類する種の体系を作り、その植物がどの種に属するか特定することである。
近代においては、物を有機体として理解するようになるらしい。例えば、植物を理解することとは、その種を特定することではなく、個々の植物がどのように有機体として生きているのか、そのメカニズムを把握することである。
バロックを代表する学問は、物を分類し、種を同定する博物学であり。生命を持っている存在としての「生物」や「人間」という概念は近代に生じた。生物学や人間に関わる諸学問、心理学や人類学が、近代を代表する学問である。
そして、現代、近代のエピステーメー、「人間」という概念が終焉を迎えようとしている。
「言葉と物」を読んでいて疑問に思ったことがある。フーコーが分析しているエピステーメーは実際に存在するのだろうか、それとも、フーコーの考古学的視線によって立ち現れてくる仮説的な存在なのだろうか。もし、存在するものとしたら、エピステーメーが人々の間でどのように共有されるのか、また、エピステーメーはどうして変化するのだろうか。
マルクスは、生産力が向上すると生産関係(下部構造)と矛盾をきたして、下部構造が変化する。社会や文化などの上部構造は下部構造に規定されており、上部構造の変化は下部構造の変化に基づいていると、社会や文化の変動のメカニズムを説明している。しかし、「言葉と物」の中では、エピステーメーとは何か、また、エピステーメーの変動の理由、動力については、フーコーは説明してくれていない。フーコーは、エピステーメーは、すべての認識に先立つ「ア・プリオリ」だという。エピステーメーが「ア・プリオリ」だとすると、それが変動する理由を説明することが難しくなるのではないか。
この点が、フーコーの理論の弱点ではないかと思う。

言葉と物―人文科学の考古学

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臨床医学の誕生

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監獄の誕生―監視と処罰

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