現代日本の政治思想

ハーバード大学サンデル教授の政治哲学の講義をTV番組にした「ハーバード白熱教室」(http://www.nhk.or.jp/harvard/)を見ていると、身近で具体的な問題が政治哲学と深いかかわりがあることがわかる。それでは、現代日本の政治において、政治哲学はどのような位置づけにあるのか思いを馳せてみた。
しかし、冷戦が崩壊し共産主義社会主義を巡る対立が終わってからは、利益団体への利益誘導やせいぜい功利主義的な考えに基づく表層的な政策論あったとしても、政治哲学と呼ぶにふさわしい深みを持った思考はあるのか疑問である。
私自身は、ハイエクの哲学に親近感を感じているから、民主党支持者ではない。しかし、自民党にも確固たる保守主義の哲学があるように見えない。民主党にせよ、自民党にせよ、最近つくられたさまざまな政党にせよ、個々の政治家のなかには政治哲学を持った人もいるのかもしれないが、党として共有した政治哲学があるようには見えない。「自由」「平和」「平等」「友愛」「伝統」といった言葉が、深い哲学的な考察なく軽いキャッチフレーズとして使われている。ある意味、最も明確な政治哲学を持った政党は日本共産党なのかもしれないが、その政治哲学と現代の状況には齟齬が大きすぎる。
政治家に政治哲学がないとして、学者から説得力があり深みのある政治哲学が提唱されているかというと、私が不勉強なのかもしれないけれど、耳にすることがない。サンデル教授のコミュニタリアニズムには賛同しないけれど、講義を見ていると深みのあるオリジナルの哲学があり、それを現実問題へ適用することを真摯に考えられていることがわかる。日本の政治学者は、海外の理論の紹介、実証的研究が中心で、オリジナルの政治哲学への思考を深めているようには見えない。
丸山眞男「日本政治思想史研究」に、荻生徂徠が新しい政治思想としての徂徠学を提唱した社会的背景について、次のように説明している。

……支配層における政治的思惟の優位はつねに二つの限界線によって条件づけられる。まづそれは一応安定した社会には起こりえない。そこでの普遍的な意識形態は秩序のオプティミズムである。なんらかの社会的変動によつて支配的立場にあった社会層が自らの生活的基礎を揺るがされたとき、はじめて敏感な頭脳に危機の意識が胚胎し、ここに「政治的なるもの(ダス・ポリーテイツシエ)」が思惟の前景に現て来る。しかるに他方社会が救い難い程度にまで混乱し腐敗するや、政治的思惟は再び姿を消すに至る。それに代つて蔓延するものは逃避であり頽廃であり隠蔽である。この中間の限界状況(Grenzsituation)にのみ、現実を直視する真摯な政治的思惟は存立しうる。徂徠はまさにこの状況に置かれることによつて、「聖人ノ道ハ世ノ政道トハ各別ノ事ノヤウニ人々ニ思ハスルハ誰ガ過ナルベキ」(前掲82頁)として朱子学オプティミズムを否定し、儒教の政治化を通じて是を「世ノ政道」の哲学的基礎たらしめんとしたのである。(p130)

現代の日本は、少なくとも「支配的立場にあった社会層が自らの生活的基礎を揺るがされた」状況にあると思う。政権交代があり、新党が作られるという状況は、政治的思惟への待望があることの現れであると思う。しかし、現実の政治においては、真摯な政治的思惟はみられない。もはや「中間の限界状況」を越えて、「蔓延するものは逃避であり頽廃であり隠蔽である」状況に至ってしまったのだろうか。

日本政治思想史研究

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