入門書の選び方

仲正昌樹「集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険」を読み終わった。
実は、この本を読むのは二回目である。最初に読んだ時には、いろいろな政治哲学者が羅列して紹介されているけれど、うまくポイントがつかめないまま漫然と読み、内容が頭に残らずに終わってしまった。
今回は、「ハーバード白熱教室」を見て、マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」を読み、アメリカの政治哲学の思想の大きな枠組みができてから読んだこともあり、「集中講義!アメリカ現代思想」で紹介されている政治哲学者たちも自分なりに位置づけができるようになった。
哲学や社会科学の入門書には、「これからの「正義」の話をしよう」のように議論の中核となる本質的なポイントを紹介するタイプと「集中講義!アメリカ現代思想」のようなブックレビュータイプのものがある。ブックレビュータイプの入門書を読むと、断片的な情報が羅列されていて、ポイントをつかむのが難しいことがある。その意味では、本質的なポイントに絞ったタイプの入門書から入った方がよさそうだ。しかし、さらに読書を深めていく上では、ブックレビュータイプのものも有益である。「集中講義!アメリカ現代思想」を読みながら、何冊か手に取ってみようと思う本を発見することができた。特に、ハイエクの議論が自分にはいちばんしっくりときた。
次は、リベラリズムに関する原典、ロールズハイエクアーレントサンデルノージックの著書にあたって見ようと思う。
「集中講義!アメリカ現代思想」を読んで、ひとつ気になったことがあった。この本によると、9.11以降リベラリズムの政治哲学者たちは有効な解答を提供することができず、議論が混迷期に入ったと書いてあった。考えてみれば、「ハーバード白熱教室」や「これからの「正義」の話をしよう」のなかで現代社会のビビッドな問題がいろいろ取り上げられていたが、9.11やその後の戦争の是非についての議論は取り上げられていなかった。これは、サンデル教授自身、コミュニタリアニズムは、9.11に対して解答がないということなのだろうか。

仲正昌樹「集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険」要約
序 アメリカ発 思想のグローバリゼーション

  • かつてアメリカの思想とはプラグマティズムで代表され、日本、西欧諸国の間で、その評価は高いものではなかった。しかし、1980年代後半から、ポストモダン思想、分析哲学が、アメリカにおいて本格的が受容・定着され、特に、リベラリズムをめぐる政治哲学的議論が進展した。この動きにより、アメリカが現代思想の中心的な位置を占めることになった。
  • 本書では、アメリカにおけるリベラリズムをめぐる論議の変遷を、現実の政治・社会情勢の変化を背景としてたどっていく。

第一講 「自由の敵」を許容できるかー戦後アメリカのジレンマ

  • 第二次世界大戦においては、アメリカは自由の守護者として反動的な全体主義国家に対峙していた。戦後、アメリカの敵が自由を標榜する「進歩的」な共産主義国に代わると、自らの「自由」を見直す必要に迫られた。
  • 全体主義によってアメリカに亡命したフロムやハイエクは、自由主義国家の内部にある自由に対する危険をそれぞれの立場から指摘した。フロムは、自由に耐えられない個人がより強い力に身を委ねることで全体主義を招く危険を指摘し、その解決策として社会がすべての成員に責任を持つ人民が参加する計画経済を主張した。ハイエクは、市場を単なる交換、利益追求の場ではなく、自由の精神が鍛えられる場として主張し、市場での競争を重視した。フロムとハイエク計画経済市場経済という対立は、現代リベラリズムにおいても大きな論点である。
  • アーレントは、自由の本質を複数性を守ることにあると指摘した。複数性を守るためには、私的な利害関係から自由になった公的領域における討論を通じた複数性を考慮した政治の場が重要という。しかし、現代社会においては、私的な利害関係の追究によりこうした複数性を確保する政治の場が失われていると述べている。また、アーレントは、自由の概念を、拘束抑圧からの解放の"liberation"と、市民が公的領域で共通の理想を追求する"freedom"に区分する。フランス革命は"liberation"のみで"freedom"に実現しなかったが、アメリカ革命は"freedom"を実現したとする。
  • ハイエクは、フランス系合理主義的な「自由」は、理性に基づく理想状態を想定し、社会をそこに導く設計主義的傾向があり、社会主義計画経済に結びつくと批判する。一方、イギリス系の反合理主義的な「自由」は、理性の限界、無知を前提とする。どのような理想が好ましいかを知っている人間はおらず、各人が自らの自由を行使して試行錯誤をし、経験知を蓄えることが重要だとする。そのような視点から、経験知を集めた伝統や習慣、市場メカニズムを重視する。

第二講 自由と平等を両立せよ

  • 自由の前提として政治、共同体の活動に平等に参加する機会を与えられている必要がある。アメリカは、自由で平等な国家だと自己理解してきた。しかし、1950年代から公民権運動、フェミニズムは、すべての国民に平等に参加する機会が与えていなかったとして、アメリカの「自由」に疑問を提示した。
  • アメリカの政治は、保守的な自由主義者公民権運動やフェミニズムに理解を示すリベラル派に二分された。しかし、ベトナム戦争を推進することでリベラル派は自己矛盾をきたすようになった。そして、リベラル派は、新たに台頭してきた新左翼から批判され、保守派と挟撃されるようになった。この当時、リベラル派はよって立つ理論的バックボーンを欠いていた。
  • そのような状況において、ロールズの「正義論」は混迷したリベラル派のための政治哲学として登場した。ロールズは、功利主義は、一部の人の権利が侵害される可能性があるとして批判した。「正義」を「公正」の問題としてとらえなおし、正義は、社会の基礎となるルールが公正であるとの共同体の構成員による合意に基礎づけられると考えた。共同体の公正員が公正であると合意できる「正義の原理」として、各人が基本的な自由に対する平等な権利を持つこと、最も不遇な人の効用を最大化する格差のみが認められること(格差原理)の二つの原理があると主張した。この原理に合意することを確認するために「無知のヴェール」の思考実験を提案した。

第三講 リバタリアニズムコミュニタリアニズム

  • ロールズの「正義論」は、大きなインパクトを与え、現代リベラリズムの最も重要な古典と見なされている。これに対し、リバタリアニズムコミュニタリアニズムの二つの立場から批判がなされている。
  • ハイエクミルトン・フリードマンなどが主張した自由を重視し、平等や正義といった要素を自由主義に持ち込むべきではないとするリバタリアニズムは、ロバート・ノージックによって哲学的に洗練された。ノージックは、ロールズと異なり、自然状態から出発すると、市場的プロセスを経て「最小国家」に至ると主張した。最小国家で保証されるのは、誰も所有していなかったものを所有する獲得の正義、保有物の移転に関する移転の正義、この二つの正義についての不正を正す匡正の正義の三つの正義に限定されるとし、ロールズの配分的正義や最小国家を超える拡張国家を批判する。リバタリアンのなかには、さらに議論を徹底し、国家の存在を認めないアナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)を主張する者もいる。
  • 一方、アラスデア・マッキンタイアマイケル・サンデルは、文化的共同体のなかで培われる価値観を重視し、普遍的な正義の原理に基づくリベラル派を批判する。マッキンタイアは、リベラル派は社会契約に基づくルールに従うことが道徳的であるとしているが、これは議論が転倒しており、ルールは道徳的な目的に従属すべきとする。そのためには、共通善を追究する共同体という概念が必要だと主張する。サンデルは、個人が善き社会を指向することを説明するには個人が自己完結した「負荷なき自己」ではなく、共同体の暗黙の慣習や相互理解が個人の自己理解の基盤を提供している「状況づけられた自己」を想定する必要があると指摘する。

第四講 共同体かアイデンティティ

  • 1980年に「強いアメリカ」を掲げたレーガンが保守派の支持を受け大統領に就任した。保守派のなかで大きな影響を持っていたのは、「キリスト教原理主義」と呼ばれていた「宗教右派」である。宗教右派などの保守派は、リベラルな価値観の浸透によりアメリカの伝統的な価値観やアイデンティティが脅かされていると感じ、その復活を主張した。
  • これに対し、リベラル派の哲学は個人の価値観からの中立を前提としていたため、個人的な価値観に立脚する保守派の主張に対し反論することが難しい面があった。
  • 一方、左派の側からは、差別を撤廃し市民として平等に扱われ社会に統合することを目指してきた公民権運動から、メインストリームとは異なる自らの文化的アイデンティティの確立や多文化主義を主張する「差異の政治」派が現れた。「保守派」と「差異の政治」派の対立は「文化戦争」と呼ばれた。

第五講 ポストモダンとの遭遇

  • 「差異の政治」派は、リベラリズムの前提となっている近代市民社会のなかで、不可視の権力や抑圧が存在することを指摘するポストモダンの思想の影響を受けている。主流の文化の抑圧の下で形成されたマイノリティのアイデンティティは歪んでおり、本来の姿を取り戻すことを主張する。価値中立的なリベラル派は、法や政治の対象となる「公的領域」と法や政治の対象としない「私的領域」を峻別するが、ラディカル・フェミニズムは、このリベラルの公/私二分論的な思考を、「私的領域」である「家」の不可侵性は、夫の妻に対する、家長の他の家族に対する暴力的な支配を正当化するものとして攻撃する。セクシャル・ハラスメントやDVなど、それまで私的領域の問題とされていたものが公の法の対象となるようになった。
  • アメリカ・フランクフルト学派フレイザーは、公/私を厳格に峻別するのではなく、緩やかなネットワークとしての多元的な公共圏を形成すること主張している。主流派の公共圏と並びサブ公共圏を存在させ、公/私の境界線を流動化させることで、差別された人たちが承認される道を開くことができるとする。

第六講 政治的リベラリズムへの戦略転換

  • 分析哲学者ローティは、哲学には最終的な真理に到達することを目的とする「認識論」タイプと、合意を目指しながらも意見の不一致も生産的な刺激と見なす「解釈学」的タイプがあると指摘し、後者が生産的とする。自由主義にも、人権を絶対的なものと見なすタイプと、特定の共同体の合意の産物と見なすタイプがあるとし、後者を支持する。公的領域での政治に人間の本質論を持ち込むべきではなく、自分の道徳性が偶然の産物であることを知っている偶然の感覚を重視する。このような立場を「リベラル・アイロニスト」と呼ぶ。そして、アメリカを民主主義の理想を完成するプロジェクトと見なし、改良主義的左翼の立場を主張した。
  • ロールズは、異なった信念を持つ市民が民主的に討論し合意へ導く前提として、「公共的理性」重視する政治的リベラリズムを主張した。アメリカ・フランクフルト学派は、討議を通じて市民が新しい視座を得て、その結論に正統性を与える「討議的民主主義」を主張した。
  • 一方、コミュニタリアンリベラリストと反対に、政治を道徳化する方向に向かった。また、討議による合意はジェンダーエスニシティといった「差異」を隠蔽すると考え、討論の場に他者が参入できるように変更する闘争を主張する「闘技的多元主義」もある。
  • 個人の自由を目指す「自由主義」と集団的意思決定のための「民主主義」は、必ずしも両立しない。自由の領域を最大限に広げようとするリバタリアンは自由を重視し、民主主義による決定の領域を狭めようとする。一方、平等を重視する立場は民主主義を拡大することを求める。民主主義の拡大にも、合意に向けて意見の統一を目指すか、差異を明確にするかで方向が異なってくる。

第七講 <帝国>の自由

  • 冷戦終結後、地域紛争が噴出するようになった。そのような時代のなか、フランシス・フクヤマは、自由民主主義の勝利による「歴史の終焉」を主張し、一方で、サミュエル・ハンチントンは「文明の衝突」を指摘した。
  • 文明の衝突」のなかで、アメリカへの反発を抑えるためには、経済格差や文化的多元性を前提としたロールズの正義論、政治的リベラリズムのグローバル版が求められるようになった。ロールズは「リベラルな社会」がどこまで異なる体制の社会を認めることができるか検討し、「秩序ある階層社会」とは万民の法を共有できるとした。そして、その自由を守るためには、拡張主義の「無法国家」に対し交戦権があるとした。また、秩序だった社会を作るために必要な資源を欠いている「重荷を背負った社会」に対して、「秩序ある社会」は援助義務を負っているとする。
  • また、ネグリとハートは、グローバリゼーションの進展により、世界規模で普遍的な法、権利の体系を備えた「帝国」が生成しつつあると指摘した。多様なアイデンティティを持ちながら「帝国」を利用して柔軟な連帯関係を結んでいる人々を「マルチチュード」と呼ぶ。
  • しかし、9.11以降、自由主義、民主主義、グローバリズムをめぐる多様な議論は、アメリカの現実政治を肯定するか否定するかの二者択一に集約された。リベラル派の知識人は、9.11以降のブッシュ政権の対外政策をめぐって明快な議論ができず混迷を深め、リベラリズムは停滞期に入った。

第八講 リベラリズムから何を汲み取るべきか

  • 西欧諸国でアメリカ発のリベラリズムの思想が受容されるなか、貧困な第三世界諸国などの社会における自由や民主について十分に議論されてこなかった。インド出身のセンは、自由を支える潜在能力の向上に着目した。
  • 日本の政治哲学の領域においても、アメリカの影響が強まっている。今後、日本がグローバルに生成しつつある「帝国」の市民となるべきか、「国民国家」にこだわるべきか考える上で、アメリカのリベラリズムの思想は参考となるだろう。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学