@yagian: 「思想界」は席巻したんだろうけど、「思想界」が意外と狭い世界で、実際の政治への影響力はほとんどなかった、という感じかな。 RT @yinamoto 「日本政治思想史研究」を読んだときは、まるで江戸時代には一時期、荻生徂徠の学派が思想界を席捲したような書き方だけど実際にはどの程度
2010-07-13 12:36:16 via web
@yagian: 暑さもやや和らいだおかげか、まずまず好調。今日の朝の通勤の音楽は Pet Sounds。コーラスに癒される。 #nowplay
2010-07-13 08:00:27 via web
@yagian: 「東アジアの王権と思想」の著者の渡辺浩は丸山眞男の弟子だそうだけれども、徳川時代の儒学の地位に対するシニックな視線(正統的な政治思想などでは決してない)が、印象的。ある意味、儒学から国学への展開を「政治思想」の変遷として描いた「日本政治思想史研究」を根本的に否定しているような。
2010-07-13 06:13:52 via web
@yagian: 続き:荻生徂徠は、治者の操作によって民の行動様式を制御し、社会の秩序を保つこと主張した。さらに、朱子学批判の学として本居宣長が現れた。朱子学批判という文脈で中国と日本は共通するが、その間には大きな懸隔があった。
2010-07-13 06:10:34 via web
@yagian: 続き:このため、朱子学の「理」を否定し、厳粛な規範主義、理想主義を嫌悪し、「道」と「俗」の合致を求める試みがなされた。伊藤仁斎東崖親子は、「人情」を通じた相互の「愛」を通じた共存を主張し、「理」を信じ普遍的正義を追究する態度を否定した。
2010-07-13 06:07:25 via web
@yagian: 続き:このため「家職国家」に即した形で「理」を理解した朱子学が普及した。朱子学は徳川時代の正統ではなく、また、中国朝鮮の朱子学ともかなり異質だった。また、「学者支配」がない日本では、正統性の確保のための「義理」の追究「功利」の否定は必ずしも求められていなかった。
2010-07-13 06:03:45 via web
@yagian: 続き:日本においては、中国のような「学者支配」は成立せず、儒者は統治に直接関与することは少なかった。朱子学は、皇帝から庶民まで同じ「理」を追究することを理想とする思想である。しかし、日本は個々の「家業」に忠実であることを求める「家職国家」であり、普遍的な「理」の貫徹とは相反する。
2010-07-13 06:00:36 via web
@yagian: 続き:しかし、実際には、科挙や政治の現場は「功利」を求める場であり、朱子学の思想とその内実の乖離と矛盾は大きくなり、思想の形骸化が進んだ。清朝において、儒学者たちは公式には朱子学を信奉しつつ、「理」に反発し「情」の重視や古典の考証などが流行することになった。
2010-07-13 05:55:44 via web
@yagian: 続き:そして、「功利」を否定し「義理」を追究する原理主義的規範主義的な朱子学が正統思想となった。これは、特権的かつ純粋な精神労働従事者である「士大夫」による支配を正当化するために、儒教的教養の権威を超越的なものに結びつけ、公益に献身していることを示す必要があったからである。
2010-07-13 05:49:05 via web
@yagian: 「東アジアの王権と思想」3「儒学史の異同の一解釈」要約:宋代から清代までの中国と徳川時代の日本の儒学思想の歴史は類似点があるが、一方で対照もある。その相互比較を試みる。中国において、宋代に科挙制度が確立し、儒学的教養を持つ「士大夫」による「学者支配」が成立した。
2010-07-13 05:42:40 via web
@yagian: 続き:正統思想は、徳川期の思想史において想定されているように、権力や体制を後から追認するものとして持ち込まれたものではないはずだ。そして、イメージとしての体制は、その時代の人間が自ら別のイメージを作り上げることで、体制を崩壊させてしまうこともあり得るのである。
2010-07-13 05:37:41 via web
@yagian: 「東アジアの王権と思想」2「制度・体制・政治思想」要約:「国家」や「体制」は、人間の行為が強く実体化されたイメージ・像をよりどころとして成立する。そのイメージが体系的に文字に結晶しているときに体制の正統思想と呼べる。
2010-07-13 05:35:42 via web
@yagian: 続き:しかし、イデオロギー的な正統性がある清朝や李氏朝鮮は、夷狄に軍事的に破れて体制は揺るがないが、超越的な道理の支えを持たない「ご威光」による支配は脆弱である。ペリー来航後わずか15年で「ご威光」体制は瓦解した。その後、新たに「御禁裏様」を中心とした「ご威光」の体制が作られた。
2010-07-13 05:26:21 via web
@yagian: 続き:清朝や李氏朝鮮は、西洋諸国の開国の要求を断固としてはねつけ、戦争によって敗北するまで開国しなかった。一方、公儀は一戦も交えることなく開国、通商を認めていった。これまで、儒教官僚の頑迷と武士の軍事的リアリズムの対照を示すこととして説明されてきた。
2010-07-13 05:21:59 via web
@yagian: 続き:江戸時代が進むにつれ「ご威光」を裏付ける軍事的実力を発揮する機会がなく、「ご威光」の空洞化が進んだ。そして、公儀は、ペリー来航後、外国と戦闘することを避けた。これは、外国によって体制が直接軍事的に解体されることを恐れたのではなく、「ご威光」が失墜することを恐れたのだろう。
2010-07-13 05:18:47 via web
@yagian: 「東アジアの王権と思想」1「「ご威光」と象徴」要約:徳川政治体制は暴力によって成立したため、理論的正統性は薄く、体制のイデオロギーは曖昧であった。その代わりに、軍事的実力に裏付けされた将軍の「ご威光」と身分格式の序列の体系とそれを再確認する煩瑣な儀礼によって体制は支えられていた。
2010-07-13 05:14:16 via web
@yagian: 続き:在位中は「禁裏」「天子」など、退位後は「仙洞」「新院」など、没後は「…院」と呼ばれた。1925年にすべての「…院」たちを遡って「…天皇」と呼び変えた。本書では、光格天皇以前は「…院」、「天皇」ではなく「禁裏」と呼ぶ。「藩」も18世紀後半に一般化した用語であり注意して用いる。
2010-07-13 05:09:55 via web
@yagian: 続き:江戸時代には天下を統治していた公儀が「朝廷」と呼ばれていたことがあった。「朝廷」が京都にあり、江戸には「幕府」があるという通念は水戸学的なものである。本書では「禁裏」「禁中」と呼ぶ。また、13世紀初期から18世紀末までは、「天皇」の号は整然も死後も用いられていなかった。
2010-07-13 05:04:38 via web
@yagian: 「東アジアの王権と思想」序「いくつかの日本史用語について」要約:「幕府」という用語は、将軍が天皇から任命されたことを強調しようとする後期水戸学が用いたことが契機となる幕末に普及したものであり、それまでは一般的に使われる用語ではなかった。本書では、「公儀」という用語を用いる。
2010-07-13 05:01:06 via web