レヴィ=ストロースとマルクスの奇妙な関係

クロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」を読み終わった。
「野生の思考」のなかで、レヴィ=ストロースマルクスは、奇妙な関係にあることが印象に残った。
まず、マルクス主義に言及した部分を引用してみたい。

 私が基本理念と上部構造に一種の優位を与えているように見えるとすれば、それはもちろん説明の便宜のためだけであり、またこの本が基本理念と上部構造を対象としたものだからである。理念上の変革が社会的変革をうみ出すというつもりは毛頭ない。正しいのはその逆の順序だけである。自然と文化の関係を人間がいかに考えるかは、人間自体の社会関係の変り方に依存するものである。しかしここでは、私の意図は上部構造の理論の見取図を作ることにあるので、上部構造に特別待遇を与え、重要現象ではあってもわれわれの現在の目的にはいらぬものは括弧に入れるか従属的位置に置くように見えるのは、方法上の理由から止むを得ぬところである。(p139)

 異論の余地のない下部構造の優位に意義を唱えるのではないけれども、私は「実践」と慣習的行動の間にはつねに媒介項があると信じている。その媒介項が概念の図式なのであって、その操作に寄って互に独立しては存在し得ない物質と形態が、構造として、すなわち経験的でかつ解明可能な存在として実現されてるのである。私は、マルクスがほんの少し素描しただけのこの上部構造の理論の確立に貢献したいと覆っている。本来の意味での下部構造の研究を発展させるのは、民勢統計学、工学、歴史地理学、民族誌の助けを借りて歴史学がやっていただきたい。下部構造そのものは私の主要な研究対象ではない。民族学はまず第一に心理の研究なのである。(p154)

マルクス主義における唯物史観では、下部構造すなわち生産力の発展段階に対応する生産関係が、上部構造、文化や社会を規定すると考える。
レヴィ=ストロース構造主義による研究は、彼自身が述べているように上部構造にあたる文化や社会に関するものである。「野生の思考」を読む限りでは、上部構造に「優位を与えているように見える」し、「下部構造の優位に意義を唱え」ているように見える。
次に引用する「冷たい社会」という概念は、むしろ、上部構造が下部構造を規定していることを主張しているように見える。

 「冷い」社会の目的は、時間的順序の連鎖がそれぞれの内容にできるだけ影響しないようにすることである。その目的の達成はおそらく不完全なものでしかないであろうが、ともかくそれが、これらの冷い社会の自らに課する規範なのである。…冷い社会がそれに成功するためには、制度によって、偶然的な人口要因の影響を制限し、集団内および集団間にあらわれる対立を緩和し、また個人的集団的活動の枠を恒久化して、回帰的連鎖に調節作用を及ぼすだけでは足りない。結果の集積が経済的社会的大変動を生じるような非回帰的事件の連鎖が形成された場合、ただちにそれを破壊しなければならない。さもなくば、そのような連鎖の形成を予防する有効な方法を社会がもっていなければならない。(pp281-282)

冷たい社会では、制度によって「偶然的な人口要因の影響を制限し」、「個人的集団的活動の枠を恒久化」している。このような社会では、下部構造である生産力の発展は、上部構造によって阻害され、一定の状態が維持されることになる。
マルクスが上部構造を素描しただけなのは、下部構造こそが一次的なものであり、上部構造を二次的なものと考えたためだろう。マルクス主義を信奉していれば、下部構造と下部構造の上部構造への影響を研究するのが当然であり、上部構造そのものの理論の確立には向かわないだろう。
客観的に見れば、「野生の思考」はマルクス主義を否定している。しかし、レヴィ=ストロースマルクス主義に配慮した表現をしている。奇妙である。
レヴィ=ストロースは、若い頃マルクス主義の活動に参加していた経験があるという。理論的にはマルクス主義から離れても、プロレタリアートのために社会を変革する実践するという倫理的な側面には惹かれていたということだろうか。それとも、「野生の思考」が公表された時代に、知識人がマルクス主義を批判することに大きな危険があったのだろうか。

「野生の思考」要約
第一章 具体の科学

  • 野生の思考は、科学的思考と同じように世界を秩序づけ、因果関係を設定する。
  • 呪術的思考では、科学的思考よりも、過剰に因果性を追究する。例えば、倉が崩壊して下敷きになって人が死んだ場合、物理的な因果関係だけではなく、その人が死んだ理由を呪術に求める。
  • 神話的思考の特徴はブリコラージュ(器用仕事)にある。ブリコラージュとは、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものをつくることである。同様に、神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。
  • 神話的思考では、具体的な知覚、出来事と概念を結びつけた記号を用いる。神話の創作は、限られた構成要素である具体的な出来事の配列の組み替えとして行われる。科学的思考では、個別的な出来事と構造を区別する。
  • 神話的思考においては、出来事を組み合わせて構造を作り上げる。一方、科学的思考では、構造、すなわち、仮説と理論を使って出来事という形で自らの成果を作り出して行く。

第二章トーテム的分類の論理

  • 「未開人」の自然の分類の体系はきわめて詳細で体系的であり、親族体系や儀礼の体系と対応関係を持っている場合が多い。
  • 自然の分類の体系と親族体系などの対応関係は、体系内の要素間の「関係」のみが一定であり、用いられている「要素」は一定ではない。

第三章変換の体系

  • 一般的にトーテムと呼ばれる命名と分類の体系はコードであり、そのメッセージは他のコードに変換して表現することができる。
  • オーストラリアの諸部族の技術・経済的、社会的宗教的構造は、全体として相互に変換できる大きな変換群となっていると想像してもよいだろう。
  • 諸文化の関係が変換群となっているように、一個別文化のなかの諸レベル、例えば、社会的な人間相互の関係、技術的経済的な人間と自然の関係の間でも変換が可能となっている。人間と自然の関係は、自然的条件に規定されるのではない。一つの状況に対しても体系化の可能性はいくつもある
  • 自然的要素によって作られる体系にせよ、文化的要素に作られる体系にせよ、トーテム表徴が体系間の変換を可能にするコードであるならば、このコードが食物禁忌のような行動規制を伴うのはなぜか。ある種の動植物を食物禁忌とするのは、それらを有標識と無標識の種の区分をするためである。

第四章トーテムとカースト

  • トーテムとカーストは対照的な制度と考えられてきた。トーテムは外婚制で「未開」な社会の現象であり、カーストは内婚制で非常に進化した社会の現象である。しかし、トーテムとカーストの間に根本的対立があるという考え方には疑問がある。
  • トーテムでは、社会集団と自然種の間の相同性ではなく、それぞれの差異の相同性に基づいている。この場合、各トーテム集団は相互に区別されるが、全体を構成する部分としてトーテム集団相互は連帯的であり、外婚制によってトーテム集団間の多様性と統一性が保たれている。
  • しかし、社会集団が自然の要素の差異ではなく、要素それ自体で定義されるようになると、その集団自体を他の集団を別個の「種」と考えるようになり、内婚的になる。また、カースト間では女性の交換の観点からは閉鎖的だが、職能集団であり社会的な機能の観点からは集団間の交換が行われている。
  • 一方、トーテムは、社会的機能の観点からは同質であり、女性の交換を行うことで集団間の相互性を保っている。
  • カーストは社会的機能で区分され機能を交換することで相互に関係しており、トーテムは自然種の差異の体系で区分され女性を交換することで相互に関係している。

第五章範疇、元素、種、数

  • トーテムとして用いられている動物は、生物学的実体として捉えられているのではない。動物は、相互に識別できる種として差異の体系を成していると同時に、その種に属する一個体であるという二重の性質によって、様々な可能性を持つ概念の道具となっている。
  • 種は、種を束ねてより大きなグルーピングをすることもできるし、さらに細分化してより小さなグルーピングをすることもできる。このグルーピングのレベルごとに、その区分を記号化する方法は、名称、服装の差異、身体描画や入れ墨、特権と禁忌など多数存在する。
  • この大きなグルーピングから小さなグルーピングへの関係は、ソシュールのいう連合関係に、各グルーピングのレベルごとに存在する記号化の方法は統合関係に対応する。

第六章普遍化と特殊化

  • 種の分類体系は、さまざまな分野をその体系に組み込むことができる。普遍化によって初期の集合の外にある事象を分類に組み入れたり、特殊化によって集合内のより個別的な事象を細分類する。
  • トーテム的分類は、集団内部の個人の身分を規定するだけではなく、集団外部に拡張される。一方、分類を細分化した極にある個別化のレベル、固有名詞による命名にも、分類体系のあてはめが行われている。個体はいくつかのクラスに配分されるだけではなく、そのクラスの中の他の個体と体系を形作る。

第七章種としての個体

  • 西洋文化においても、「未開」文化においても、同じ論理で人に対する命名を行っている。
  • 人は社会の中の分類体系におけるクラスの名称で呼ばれたり、親族関係を表す関係の名称で呼ばれたりする。それらの名称は、一般名詞である。
  • これに対し、それぞれの個人は、固有名詞である固有の名前を持っている。文化における分類体系のなかで、固有名詞はその周縁部を成し、限界となっている。その分類の限界の設定は文化ごとに異なっている。
  • 西洋の自然科学における分類体系では、種、変種、もしくは、亜変種のレベルが限界となっている。この場合、種名、変種名、亜変種名が固有名詞であり、そのなかに属する個体には名称が与えられていない。
  • 社会集団としての人の分類は、個人のレベルが固有名詞を与えられている分類の限界点である。
  • 新しく発見された植物に対して体系によって準備されている種名を与える自然科学者と、集団に新しく加わった成員に対して名を与えその人間の社会的連合関係を規定するオマハ族の司祭は同じことを行っている。

第八章再び見いだされた時

  • 野生の思考における分類体系においては、抽象と具体を結びつけられている。抽象性が最大になる方向の極限では、上下、左右などの単純な二項対立となる。具体性が最大になる方向の極限では固有名に至るまで分類が行われる。これらの抽象性と具体性は、一つの総体的体系をなしている。この体系のなかから一部を取り出して、「トーテミズム」といった制度を見いだすことは過ちである。
  • 「野生の思考」は、効率を高めるために「栽培種化」されたり「家畜化」された思考とは異なっている。今日の我々においても、「家畜化」された思考と「野生の思考」は共存している。
  • 有限な群を使って事物や存在(自然存在としての動物、社会存在としての人間)を分類する体系と歴史とは矛盾する。分類体系によって説明する社会では、自然的な分類系列とそれによって分類される社会的な分類系列が対応している必要がある。
  • 一方、歴史に基づく社会においては、自然的な分類系列と社会的な分類系列の間に安定した対応を見いだすのではなく、社会的な分類系列に新たな項を追加していく連続的な進化を考えるのである。歴史に基づくヨーロッパとアジアの文明地帯には、トーテミズムに繋がるものは痕跡も存在しない。
  • 社会は「冷たい」社会と「熱い」社会に区別することができる。冷たい社会では、自らが作り出した制度によって、歴史的要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響をほとんど自動的に消去しようとする。熱い社会では、歴史的生成を自己のうちに取り込んで、それを発展の原動力とする。

第九章歴史と弁証法

  • サルトルは、人間を弁証法によって定義し、弁証法を歴史によって定義するため、「歴史なき」民族を「発育不全で畸形」な人類とする。しかし、民族学は、地球上に共存する社会のすべてに人間の生の持ちうる意味と尊厳が凝縮されていることを明らかにする。さまざまな存在様式のどれか一つだけに人間のすべてが潜んでいるのだと信じるには、よほどの自己中心主義と素朴単純さが必要である。人間についての真実は、これらのさまざまな存在様式の差異と共通性とで構成される体系の中に存するのである。
  • 野生の思考の特徴はその非時間性にある。世界を同時に共時的通時的全体として把握しする。そして、自然界も含む世界全体をメッセージであると捉える。
  • 野生の思考は自然界を最高度に具体的に、科学的思考は最高度に抽象的にという両極端からアプローチする。
  • 野生の思考は感覚性の理論を基礎として、農業、牧畜、製陶、織布、植物の保存と調理法など新石器時代を開花期とし、今もわれわれの基本的欲求を満たしている知である。一方、科学的思考は現代科学の成果の淵源となった知である。
  • 今世紀なかばに至って、情報理論によって生体情報など自然界をメッセージとして捉えられるようになってきた。これによって、野生の思考が不連続的複雑性を基本構造とする対象を処理するときに取られなければならない方法だということが認められた。これによって、野生の思考と科学的思考という長らく別々だった二つの道が交わり、野生の思考の原理の正当化とその権利が回復されたのである。

野生の思考

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