平田篤胤と柳田國男、魂のゆくえ

子安宣邦平田篤胤の世界」を読み終わった。
平田篤胤というと、国家主義に結びつく、過激で奇矯な説を唱えた国学者という印象があった。
島崎藤村「夜明け前」に、藤村の父をモデルにした木曽馬籠の本陣の主人、青山半蔵が平田篤胤の養子平田鉄胤の門人になるエピソードがある。青山半蔵は、木曽馬籠を取りまとめる地方の名士でインテリだけれど、特に過激な思想を持つようなバックグラウンドを持った人ではない。なぜ、そのような人が「過激で奇矯な」平田国学に入門するのか、また、平田国学が都市部だけではなく地方まで広く広まったのか、興味をそそられた。
丸山真男小林秀雄といったそうそうたる人たちが論じている本居宣長と違って、平田篤胤について語った本は少ない。そのなかで、子安先生が平田篤胤について書いている本を見つけ、読むことにした。
この本では、平田篤胤について論じる前に、本居宣長の死生観について触れている。本居宣長自身が「答問録」に書いた文章を、「平田篤胤の世界」から孫引きする。

…人の生まるゝはかやうかやうの道理ぞ、死ぬればかやうかやうになる物ぞなどゝ、実はしれぬ事をさまざまに論じて、己がこゝろこゝろにかたよりて安心をたて候は、皆外国の儒仏などのさかしら事にて、畢竟は無益の空論に候。

…古書をよく見候へば、人々、小手前の安心と申事はなき事と申事も、其安心は無益の空論にて、みな外国人のつくりごと也と申事も、おのづからよく知られ候。これ真実の神道の安心也。

神道の此安心は、人は死候へば、善人も悪人もおしなべて、皆よみの国へ行ク事に候。善人とてよき所へいまれ候事はなく候。…儒仏等の説は、面白くは候へ共、実には面白きやうに此方より作りて当て候物也。御国にて上古、かゝる儒仏の如き説をいまだきかぬ以前は、さやうのこざかしき心なき故に、たゞ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、理窟を考える人も候はざりし也。
(pp131-134)

死に関する儒教、仏教のさまざまな教えは、みな作りごとにすぎない。真実の神道の安心とは、安心がないことが安心という境地である。人は死ねばみな黄泉の国に行くのであり、儒教や仏教が入ってくる前は、ただ悲しいと思うばかりで、理屈を考えるひともいなかった。
以前のウェブログでも書いたことがあるが(id:yagian:20100917:1284670278)、本居宣長の考え方は徹底しており、一種異様なまで達観しているように見える。しかし、弟子も含めてこのような本居宣長の考え方にはついて行けない人が多かったようである。
平田篤胤は、本居宣長を師として仰ぎみているが、死生観については対照的な考え方をしている。彼の主著「霊能真柱」の言葉を、やはり「平田篤胤の世界」から孫引きしたい。

古学する徒は、まづ主と大倭心(やまとごころ)を堅むべく、この固めの堅在では、真の道の知りがたき由は、吾が師の翁の、山菅の根の丁寧に、教悟しおかれつる、此は磐根の極み突立る、厳柱の、動くまじき教なりけり。斯くてその大倭心を、太く高く固めまく欲するには、その霊の行方の安定(しずまり)を、知ることなも先なりけり。
(p263)

国学する者は、やまとごころを固める必要がある。そのためには、まず、霊魂の行方と鎮まりについて知らなければならない。
本居宣長と正反対である。そして、平田篤胤は、霊魂の行方、霊界について、日本の古伝に限らず広く外国の書物を探求し、その中には中国語で書かれたキリスト教の教説も含まれていた*1
この平田篤胤の文章を読みながら、柳田國男の「先祖の話」の序文を思い出していた。この本は戦争が激化した昭和20年の前半に書かれ、序文は戦後すぐの時期に書かれている。

…家の問題は自分の見るところ、死後の計画と関聯し、また霊魂の観念とも深い交渉をもっていて、国ごとにそれぞれの常識の歴史がある。理論はこれから何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ悪しかれ多数の同胞を、安んじて追随せしめることができない。

…このたびの超非常時局によって、国民の生活は底の底から引っかきまわされた。日頃は見聞することもできぬような、悲壮な痛烈な人間現象が、全国の最も静かな区域にも簇出している。その片端だけがわずかに新聞などで世の中へ伝えられ、わたちたちはまたそれを尋ね捜しに地方をあるいてみることもできなかった。かつては常人が口にすることさえ畏れていた死後の世界、霊魂はあるかないかの疑問、さては生者のこれに対する心の奥の感じと考え方等々、おおよそ国民の意思と愛情とを、縦に百代にわたって繋ぎ合わせていた糸筋のようなものが、突如としてすべて人生の表層に顕れ来たったのを、じっと見守っていた人もこの読者の間には多いのである。
(pp9-12)

柳田國男は、戦争という非常時に、そして、その後の日本の再建のためには、人々が霊魂の行方をどのように考えていたのかを明らかにしなければならないという。
幕末という社会の変動期に平田国学に入門した青山半蔵は、柳田國男がメッセージを伝えなければならない人たちと重なるのではないかと思う。
平田篤胤の世界」に、折口信夫の次のような言葉が引用されている。

…その折口が、「先生も不愉快に思はれ」るかもしれないがという保留を付しながらも、柳田国男の学問を篤胤のそれと重ね合わせてみようとしているのである。折口は、「とにかく平田翁の歩いた道を、先生は自分で歩いてゐられたことも事実なのです」(「先生の学問」)と柳田についていうのである。たしかにこの折口の指摘にしたがって、柳田の学問を篤胤のそれに重ね合わせてみること、ことに柳田の祖霊に寄せる思いと篤胤の幽世に向ける関心とを重ね合わせてみること、その両者の連関をたどってみることは興味あることであり、すでに民俗学者もその点について言及している。
(p235)

もちろん、キリスト教も含めて雑多なものから自分独自の死生観を作り上げた平田篤胤と、常民の死生観によりそって考えようとする柳田國男には相違点も多い。しかし、激動期において、人々の死生観について一つの答えを与えようとしたというところには共通していると思う。それば、平田国学が幕末に共感を持つ人を獲得した理由だと思う。
個人的には本居宣長の達観ぶりに共感を覚えるけれど、人々が平田篤胤に惹かれるプロセスに関心がある。
「夜明け前」はなんどか挑戦して、途中で挫折しているけれど、こんな視点を持って読みなおしてみようかと思う。

平田篤胤の世界

平田篤胤の世界

夜明け前 第1部(上) (岩波文庫)

夜明け前 第1部(上) (岩波文庫)

柳田国男全集〈13〉 (ちくま文庫)

柳田国男全集〈13〉 (ちくま文庫)

*1:神道キリスト教の関係は、思いのほか深いところがある。例えば、神道式の結婚式は、キリスト教の結婚式をモデルに考案されたものである。しかし、神道は仏教と習合して本地垂迹説を、儒教と習合して垂加神道を作り上げたのだから、キリスト教と習合しても不思議はない。