歴史小説と歴史

島崎藤村「夜明け前」を読んでいる。
ここしばらく、日本が国民国家として成立したプロセスについて知りたいと思い、ナショナリズムを準備した江戸思想史に関する本を読んでいる。思想家レベルでの思想の変遷はそれなりに理解できたけれど、一般の人々の意識はどうなっているのか知りたいと思い、「夜明け前」を読むことにした。
「夜明け前」は、島崎藤村の父親をモデルとした青山半蔵が主人公である。彼は、木曽馬籠の本陣の主人であり、平田国学に傾倒して平田篤胤の没後の門人となった人である。国学、特に平田国学は日本のナショナリズムの成立に大きな影響を与えたから、市井の人が平田国学をどのように吸収し、行動したのかを知るためのよいモデルケースとなるだろうと思った。
しかし、そうした観点から「夜明け前」を読むと、やや不満を感じるところがある。藤村は、事実をありのままに書くことを標榜した自然主義の作家だから、「夜明け前」を書くときにその元となった島崎正樹が残した資料になるべく忠実に書いているのではないかと期待したが、意外に「小説」となっていた。会話のなかに、江戸時代では使うことのない近代の言葉が入っていたりして、どこまでが素材に基づいており、どこまでが藤村の創作なのかわからない。残された資料は乏しく、「小説」として創作した部分が多いのかもしれない。そうなると、幕末の市井の人について知るためのモデルケースとしての価値は下がってしまう。
森鷗外に「歴史其儘と歴史離れ」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card684.html)という随筆がある。鷗外が歴史小説を書くときに、どこまで史実に忠実に書くか、どこまで史実から離れるか、ということについて書いたものである。鷗外の歴史小説や史伝ものと呼ばれる作品のなかで、「歴史其儘」に書かれた作品群、例えば「阿部一族」や「澁江抽斎」などは、専門家の綿密な考証によれば史実から離れた部分もあるようだけれども、私のような一般の読者から見れば原資料に忠実に書かれており、歴史や過去の人の行動、思考を知るための材料としては優れていると思う。「阿部一族」を読むと、武士の倫理とそれに基づいた行動が描かれており、新渡戸稲造「武士道」を読むよりずっと武士道について理解を深めることができる。
また、今「龍馬伝」で取り上げられている土佐の郷士について書かれた安岡章太郎「流離譚」では、作者が日記や書簡を読みながら過去を再現するプロセスがそのまま小説となっており、どこまでが原資料によっており、どこまでが作者の推測なのか区別できるように書かれている。これは一つの歴史小説の書き方だと思う。
孫正義は、坂本龍馬に傾倒しているようで、「龍馬伝」に感動し、興奮したツイートをよく書いている。それを読むと、大きな仕事をする人はそれぐらい何かにのめり込むことが必要なのかな、と思わなくもないけれど、「龍馬伝」はあくまでもドラマですから、と茶々を入れたくなる。「龍馬伝」と歴史を混同するのは、あまりにもナイーブすぎはしないかと思う。
歴史小説の読者の多くは「歴史其儘」を知りたいために読んでいるわけではなく、孫正義のように過去を舞台にした血湧き肉躍る物語を求めているのだろう。だから、司馬遼太郎の「歴史」小説に比べ、鷗外の「歴史其儘」の歴史小説がポピュラーになることはない。

夜明け前 第1部(上) (岩波文庫)

夜明け前 第1部(上) (岩波文庫)

森鴎外全集〈14〉歴史其儘と歴史離れ (ちくま文庫)

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阿部一族―他二編    岩波文庫

阿部一族―他二編 岩波文庫

渋江抽斎 (岩波文庫)

渋江抽斎 (岩波文庫)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

流離譚 上 (講談社文芸文庫)

流離譚 上 (講談社文芸文庫)

流離譚 下 (講談社文芸文庫)

流離譚 下 (講談社文芸文庫)