ジョン・ロールズ「公正としての正義 再説」第一部基礎的諸観念

ジョン・ロールズ「公正としての正義 再説」を読み始めた。
いつもは、各章ごとTwitterに要約をアップしているけれど、今回は一回分がTwitterには長すぎるようになりそうなので、ウェブログ逐次アップしていこうと思う。
まずは、第一部の要約から。

ジョン・ロールズ「公正としての正義 再説」第一部基礎的諸観念 要約

  • 「公正としての正義」の実践的な目的の一つは、民主的制度のために哲学的・道徳的基礎を提供することである。
  • 「公正としての正義」を構成する基礎的な観念として、「世代間にわたる公正な社会的協働システムとしての社会」が位置づけられる。
  • 「世代間にわたる公正な社会的協働システムとしての社会」は、自由で平等な人格としての市民が、同一の正義原理を受け入れ、それによって規制されている秩序だった社会である。
  • 「公正としての正義」は、社会がさまざまな包括的教説を含む穏当な多元性をもつものとすれば、特定の価値観、教説に基づくものではなく、すべての市民が公正な条件のもとで相互に取り結んだ合意に基づくべきである。そのためには、現存の社会における個々の特徴や環境から切り離された原初状態、「無知のヴェール」の状態で合意しうるものでなければならない。ただし、この原初状態は歴史的に実在したものではなく、仮説的、非歴史的なものである。
  • 「公正としての正義」を合意しうる自由で平等な人格は、二つの道徳的能力を持っている。一つは「公正としての正義」の原理を理解し、適用し、準拠して行動する能力である。もうひとつは、人生における価値に関する構想を持ち、それを合理的に追求する能力である。この二つの道徳的能力によって、自由で平等な人格は、相互に利益となる社会的協働に携わり、「公正としての正義」を尊重するように動機づけられる。
  • 「公正としての正義」は、社会の基本構造を対象とする。基本構造とは、社会の政治的・社会的諸制度を相互に適合させて社会的協働のシステムとする方法であり、独立した司法部をもつ政体、法的に承認された経済形態、経済構造、なんらかの形態の家族などを含む。「公正としての正義」は、包括的な宗教的・哲学的・道徳的教説(すべての主題に適用されすべての価値を包含する教説)ではなく、基本構造の形態における政治的なものに焦点を合わせた限定的なものである。
  • 「公正としての正義」に基づく民主的社会とその内部にある一定の価値観を共有する共同体を区別する必要がある。穏健な多元主義を前提とすると、合意に基づく民主的社会のみが強制権力を行使することができ、特定の共同体が政体の基礎とはならない。
  • 「公正としての正義」は、異なった包括的教説を抱く市民において共有される「重なりあうコンセンサス」である。「公正としての正義」が「重なりあうコンセンサス」であるためには、特定の包括的な見解を前提とせず、基礎的な諸観念はよく知られたものであり、公共的政治文化から引き出されたものであることが必要である。
  • 特定の包括的教説を共有し、信奉することは、役人の犯罪、必然的な残虐と残忍、宗教・哲学・科学の腐敗を招く国家権力の抑圧的行使によってのみ維持される。

ロールズの議論の中心的概念、例えば「公正としての正義」といったキーワードの訳語が生硬なため、じっくりと説明を読まないと理解できない。しかし、じっくり論理展開を追っていけば、理解できないというわけではない。
民主的社会の構成員たるべき市民は、道徳的能力を持った自由で平等な人格であるべきというロールズの主張が印象的である。実態として、日本の国民は、そのような道徳的能力を持っていることは疑問であるし、また、そのような能力を持つべきであるという観念も共有されていないように思える。ロールズ的な観点から言えば、日本は「公正としての正義」を基礎におく秩序ある社会としての前提条件を欠いているということかもしれない。
特定の包括的教説から独立した「公正としての正義」を社会全体として共有することは、なかなか難しいことだと思える。言い換えれば、民主的社会の基礎となる「公正としての正義」はあやういバランスの上に成り立っており、それを維持するためには市民の努力が必要になるということだろう。その意味で、民主的社会の構成員としての能力を欠く人々からなる社会は、民主制を維持することが難しいということになるのかもしれない。戦後の日本は、アメリカの傘の下にいたことで曲がりなりにも民主的社会であり続けてきたけれど、自らの力で民主的社会を維持できるか疑問を感じる。

公正としての正義 再説

公正としての正義 再説