「正義は力なり」と「力は正義なり」

先週は、会社から帰ってくる時間が遅く、読書の時間があまりとれなかった。昨日の午後は、久しぶりにゆっくりと本が読めた。
今、丸山眞男「忠誠と反逆」を読み進めている。
私ごときが言うのはおこがましいけれど、丸山眞男は頭がいいと感心する。自分が頭の中でもやもやと考えていたようなことを、明晰な文章ですっきりと表現してくれる。自分の考えも整理できて、なんだか、読者のこちらまで頭が良くなったような気がしてくる。
さて、いつものように、気になった部分を引用しようと思う。少々長くなる。

 …国際平和の理想と戦争の罪悪ということが国際社会におけるほど昔から喧しく叫ばれるところはないが、またここにおけるほど力は正義なり(マイト・イズ・ライト)という恥知らずな命題が大手をふって通用して来た世界もない。そうして縷々露骨な国家権力の発動がきらびやかな道徳的衣装をまとって現れ、そうした行動の真の意図を隠蔽する。しかも他方権力政治(power politics)ということがいわれる場合、その場合の権力とは単純な自然力ではなく一つの社会力である限り、そこに不可避的に心理的なモメントを包含する。権力行動への「大義名分」を、たとえミニマムにせよ伴わない政治権力というものは存在しえない。その限りではモラルとか、理想とか、総じてイデオロギーは、けっしてたんに「力」の反射ないしはその外的粉飾にすぎない、と片附けることは出来ないのである。ここに政治権力の逆説的な性格がある。「力は正義なり」がきわめて危険な、憎むべき命題であること、いうを俟たない。しかしその逆に「正義は力なり」という原理に安心して手放しで安住して居られないところに政治社会の、とくに国際政治の悲しい現実がある。だから正義を国際社会に妥当させようとする国家は少なくとも「力を伴った正義」(right with might)を原理とすることを余儀なくされる。しかしその場合でも、はたして「力」にひそむデモーニッシュな要素はつねに忠実に正義の僕としてとどまるであろうか。正義を遂行する手段として力がいつしかひ出して目的に逆作用する危険性はないであろうか。かくして問題は限りなく複雑である。
「近代日本思想史における国家理性の問題」(p241-242)

アメリカという国を見ていると、「正義は力なり」と「力は正義なり」の間の矛盾に直面しているとつくづく思う。
昔、アメリカ大使館の農務省担当者と日本のコメの輸入ついて話をしたことがある。アメリカの農務省担当者は、日本はコメの輸入を自由化すべきだと主張していた。私は、日本がコメの輸入自由化した場合、日本の商社が中国で日本米の開発輸入を進め、カリフォルニア米は競争に負けるだろう、だから、自由競争するよりは今のミニマムアクセスの枠組みの中で日本政府に圧力をかけて輸入枠を拡大したほうがアメリカのコメ農家の利益になるはずだと答えた。これに対し、相手は、仮にアメリカのコメが競争に負けたとしても、自由貿易がありうべき姿であり、それを実現させなければならないと言った。
それまで、アメリカの外交交渉には「力は正義なり」という印象を持っていたけれど、実利よりは名分を優先させるという発想することもあるのかと驚いた。それに比べると、日本の外交は名分や理想を掲げているように見えて、もっぱら実利優先だなと思った。例えば、捕鯨の問題である。日本には伝統的に捕鯨をやっており、鯨を食べる文化があるから、捕鯨の権利を認めろと主張している。実利優先である。しかし、そもそも現代世界において鯨をめぐる理想的なあり方から、日本の捕鯨のあり方を主張するという観点が欠けている。
戦後、日本は、国際社会において正義を実現するための力の行使をアメリカに任せて、また、自ら正義を主張することもなく、この難問で悩むこともなかった。しかし、日米安保体制が変容するに従って、日本も正義を主張し、それを力で実現させることが求められる場面もでてきた。これから、日本も「正義は力なり」と「力は正義なり」の間の矛盾に付き合っていく必要があるのだろう。

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)