過去の世界の復元としての歴史叙述

大学時代の同級生の稲本と会社の後輩だった入江くんが、私のウェブログで感想を書いた二冊の本について取り上げてくれている。
一冊目は、磯田道史「武士の家計簿」。
id:yagian:20101008:1286487450
id:yinamoto:20101025
http://hirie.sakura.ne.jp/2010/10/post_912.html
二冊目は、速水融「歴史人口学で見る日本」。
id:yagian:20070114:1168781112
id:yinamoto:20101122
id:yinamoto:20101126
http://hirie.sakura.ne.jp/2010/11/post_921.html
今、さっきまで「坂の上の雲」を見ていたが、これは歴史小説であって歴史の叙述ではないけれど、多くの人が英雄的人物の事跡の記述が歴史の叙述だと考えていると思う。司馬遼太郎塩野七生の人気が高いのはそのためだと思う。
この二冊の本は、専門の歴史学者が一般の読者に向けて書いたもので、英雄的人物の歴史が歴史の叙述というわけではない、歴史の叙述への認識を改めてくれる。それぞれの本は対照的なアプローチをしているが、歴史学の最近の進展の成果とその面白さを教えてくれる。
「武士の家計簿」は、最近映画化されたから内容を知っている人も多いかもしれないが、加賀藩の算用方、つまり、会計係を勤めた猪山家に残されていた家計簿を手がかりに、江戸時代の下級武士の生活を復元したもの。
「歴史人口学で見る日本」は、戸籍にあたる資料を分析し、過去の人口動態を復元する歴史人口学を紹介したものである。
「武士の家計簿」は一家族というミクロの視点から、「歴史人口学で見る日本」は人口動態というマクロの視点から過去の実態を復元する。英雄的人物の事跡とは無縁だけれども、江戸時代はこのような時代だったのか、その実態がよくわかる。目からウロコが落ちるような事実が提示される。
この週末読んだ「新版雑兵たちの戦場ー中世の傭兵と奴隷狩りー」を書いた藤木久志先生は、戦国時代について、武将たちの攻防ではなく、村に生きる普通の人々の視線から戦場の実態を復元している。
この本の終わりの部分に、結論が手際よく要約されている。

 凶作と飢餓の続く日本中世の死の戦争は、「食うための戦争」という性格を秘めていた。その意味で、戦場は大きな稼ぎ場であり、生命維持の裝置でさえあった。だから死の戦場の閉鎖、つまり秀吉の平和は、たしかに人々に安穏をもたらし、華やかな桃山文化を生み出した。だがその底で、稼ぎ場の戦場を閉ざした、十六世紀末〜十七世紀初めの日本社会は、アジア諸国の戦場と国内の新たな都市へ、金銀山へ、さらに全国の巨大開発へと、奔流のような人々の流動を引き起こしつつ、「徳川の平和」「日本の鎖国」へと向かおうとしていた。

戦国時代の戦場は、雑兵たちが掠奪と奴隷狩りが行われていた。九州地方の戦場で狩られた奴隷は、ポルトガル船などを通じて東南アジアへ売られ、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの植民地戦争を担う重要な傭兵となっていたという。
二毛作二期作ができない北陸の上杉謙信の軍は、掠奪によって秋から冬の時期に甲信越の武田領、関東の北条領に侵攻していたという。いわば、出稼ぎとしての戦争だったという。
戦場の掠奪で生活をしていた雑兵たちは、秀吉の日本統一によって国内の戦場が閉鎖されたあと、朝鮮半島での戦争へ、そして、大きな土木工事が行われいた都市へ、金銀山へ移行した。
「歴史人口学で見る日本」では、江戸時代における農村から都市への人口移動について語られている。人口の再生産性が高い農村から、死亡率の高い都市へ人口が、いわばアリジゴクのように吸引されていたという。「雑兵たちの戦場」で描かれた雑兵たちの江戸時代の姿が示されているのかもしれない。

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)

歴史人口学で見た日本 (文春新書)

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【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

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