「ハックルベリー・フィン」の改変について

NY Timesで、「ハックルベリー・フィン」のなかの「くろんぼ(nigger)」という言葉を「奴隷(slave)」に置き換えた新版が出版されるというニュースを読んだ。(http://nyti.ms/eIkby)
なかなか複雑な問題だと思う。
改変の背景には、「くろんぼ(nigger)」という言葉を含んだ作品を教育現場で使えないという要請があったのだという。
私自身は、基本的には、改変をすべきではないと思っている。それは、作品を尊重するという意味もあるし、教育の現場ではなぜマーク・トゥエインがそのような言葉を使ったのか、歴史的な文脈も含めて教えるべきだと考えるからだ。
ハックルベリー・フィン」自体は、「くろんぼ(nigger)」という言葉を使っているとしても、人種差別を礼賛するような作品ではない。類似の問題として日本でも「ちびくろサンボ」の絶版問題が起こった。(http://goo.gl/zxbb, http://goo.gl/D7Ra)これらの作品については、当時の時代背景を説明する序文を付してオリジナルのままで出版すればよいのではないか。
しかし、このような作品が商品として流通することによって現実に差別されている人々の感情を害しているという批判派の主張に有効に反論することは難しい。彼らの感情を害してまでオリジナルのままで出版する価値があるのだろうか。
しばらく前に、CNN Anderson Cooper 360で、幼児性愛を擁護する本がAmazon.comで販売されていることを追及するニュースを見た。(http://goo.gl/VwgAr) 「ハックルベリー・フィン」はオリジナルを守る価値があるということで概ね意見が一致すると思うが(それでも改変版が出版されるわけだが)、幼児性愛を助長する本が公然と売られていることを表現の自由の観点から守るべきかは微妙な問題である。特に、幼児性愛を厳しく禁じるアメリカと、比較的寛容な日本では、違った見解があるだろう。
また、「ちびくろサンボ」については、意見が分かれると思う。また、「ちびくろサンボ」に対して黒人が不快感を覚えるゆえに絶版すべきであるとしたら、サルマン・ラシュディ悪魔の詩」はどのように扱うべきだろうか。どこまでが表現の自由として許されるかは、社会を構成する個々人の主観に依存する部分が大きく、完全な合意に至るのは難しいのかもしれない。
やや違った問題だが、日本では、旧字旧仮名遣いで書かれた本が、新字新仮名遣いに改変されて出版されている。中には、内田百輭のように旧字旧仮名遣いにこだわった作家の作品も新字新仮名遣いに改変されている。確かに、旧字旧仮名遣いになれない現代の読者にとっては、新字新仮名遣いに改変されていた方が読みやすいが、やはり作者の意志とオリジナルの作品を冒涜しているのではないかと思う。実際、多少旧字旧仮名遣いの文章をがまんして読めばすぐ慣れるし、また、作品の印象も違ってくる。「江戸川乱歩」と「江戸川亂步」では、おどろおどろしさが違っている。
私自身は、基本的にはオリジナルを改変すべきではないという立場に立っている。改変版が出版されることは許容するとしても、オリジナルも入手可能であってほしいと考えている。

ハックルベリー・フィンの冒険〈上〉 (岩波文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険〈上〉 (岩波文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険 下 (岩波文庫 赤 311-6)

ハックルベリー・フィンの冒険 下 (岩波文庫 赤 311-6)

ちびくろサンボ

ちびくろサンボ