勝者の歴史、敗者の歴史

現在日本の学校で教えられている歴史を、アメリカを中心とした進駐軍の観点から書かれたものとして、東京裁判史観自虐史観と呼び批判する人々がいる。彼らは、自らの歴史観自由主義史観と呼んでいる。
確かに、現在の主流の歴史は、多分にアメリカの観点が入っていて偏向しているし、その意味では、東京裁判史観という言葉は当たっていると思う。しかし、それを批判している人々の「自由主義史観」も、十分偏向しているし、「自由主義」という名前に値しないと思う。
学校教育の現場では、多様な歴史観を提示するのは難しいと思うけれど、歴史の叙述にはさまざまな観点があり、往々にして勝者の観点からの歴史観が主流となり、それらを相対化することが重要なのだと思う(もちろん、敗者の観点からの歴史観が正しいと主張したいわけではない)。
自由主義史観」を主張する人々は、太平洋戦争(大東亜戦争)前後の歴史観を問題としているが、勝者の歴史観の相対化という意味ではこの時期だけが問題なのではない。明治維新以前の歴史も、勝者である倒幕派の観点から書かれている。現在学校で教えられている歴史は、いわば「尊皇攘夷史観」「倒幕派史観」であって、「佐幕派史観」の立場からの批判があってもいいはずである。
幕末から明治維新期に日本に駐在したイギリス人外交官であるアーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」に興味深い記述があった。

…大君(タイクーン)というのは、条約において世俗の主権者を指した称号であったが、日本人は大君という言葉を決して用いてはいなかった。征夷大将軍、すなわち「夷狄を征服する大元帥」が公式な名称であったのだが、閣老連は身長にも外国代表との公式の往復文書にこの名称を使用せず、また一般人民もこれを公方様(クボーサマ)とよんでいたのである。ところで、「反対派」の大名たちは幕府ということばを用いていたのだが、これは厳密には「ミリタリ・エスタブリッシュメント」(軍政部)と翻訳すべきものだろう。私が友人たちとの会話で用いたのは、この言葉であった。(p217)

徳川将軍は、対外的には自らが国家の主権者であることを主張するために、「大君」という呼称を使ったという。確かに、「将軍」という名称は、天皇から任命された一役職、臣下であることを意味するから、これを用いなかったのは理解できる。実際、幕末になるまでは、徳川将軍が天皇の臣下であるという意識はほとんどなかったのだろう。足利将軍が、明に対して「日本国王」の称号を用いたのと似ていると思う。
渡辺浩「東アジアの王権と思想」には、「幕府」「将軍」という言葉の成立について次のように書かれている。

「幕府」という語が一般化したきっかけは、明らかに後期水戸学にある。…徳川政権があくまでも京都から任命された「将軍」の政府であることを強調するためである。…反徳川側からすれば、当時普通の「御公儀」「公辺」等を敢えて使わず、所詮京都の権威の下にあるべきものと位置づけた、やや軽く見る意味合いを含んでいた。…江戸時代末期のあの政治状況で、「幕府」の語はみるみる流行し、普及して言った。…明治以降、学校教育の助けを得て「幕府」の語は完全に定着した。無論、それは、天皇が「日本」の歴史を通じて唯一の正統な主権者であり、徳川氏もせいぜい天皇から「大政」を「委任」され統治者たりえていたのだという(江戸時代はじめには無かった)歴史像と結合していた。このような意味で、「幕府」とは皇国史観の一象徴に他ならない。(pp3-4)

私自身は、反尊皇攘夷派、反討幕派、反薩長派である。「将軍」を「公方様」、「幕府」を「御公儀」と呼ぶ運動を推進しなければ!

一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)

一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)

一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2)

一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2)

東アジアの王権と思想

東アジアの王権と思想