私の宗教はアニミズム

Facebookのプロフィール欄に「宗教」という項目がある。私は、アニミズムと書いている。もちろん、冗談半分だけれども、真剣なところもある。
確かに、日本の多くの家庭と同様に、親族の葬式は仏式で営み、熱心な信者という訳ではないけれど、両親は、一応浄土真宗本願寺派の寺の檀家である。
宗派を問わず、お寺にお参りすることはよくある。特に、今は、つれあいと一緒に鎌倉三十三観音巡りをしているから、鎌倉のお寺にはずいぶんお参りしている。仏様に手を合わせると、厳粛な気持ちになる。
仏教の思想には親近感を抱いているし、自分の人生観にも大きな影響を与えている。ただ、浄土真宗の開祖である親鸞の教えよりは、ブッダの思想に近いテーラワーダ仏教の教えに共感する。
しかし、自分は仏教徒か、といわれると疑問である。私自身は仏教の特定の宗派に属している訳ではないし、輪廻や極楽浄土を信じている訳でもない。ブッダは一人間と尊敬するけれど、阿弥陀仏大日如来の実在を信じているわけでもない。
一方、お寺とともに、神社にお参りすることも多い。拍手を打つと、心がさっぱりするような気がする。
だからと言って、自分の宗教は神道かといわれると、それにも納得できない。現代の神道の特定の宗派に属している訳ではない。日本の伝統的な民俗的な信仰には心惹かれるけれど、現代の宗教団体としての神道には関心がない。宗教団体としての神道には、太平洋戦争以前の国家主義との結びつきが強すぎて、拒絶感がある。
仏も神も信じないという意味では、不可知論者なのかもしれない。しかし、本来の不可知論者は、キリスト教などの一神教が一般的な社会のなかにあって、積極的に神の存在に疑問を感じる人なのだと思う。日本の社会に生きていると、一神教的な神の存在を意識することはない。だから、そもそも神の存在、不在という問題を考えたことすらない。だから、自分は、不可知論者とも言えないように思う。
日本人の知り合いと宗教的な話をすると、神や仏の存在は信じないけれど、宇宙の力のようなものの存在は感じるという人が多い。私も同じような感覚がある。キリスト教徒の知り合いに、この大きな存在と神は似たものなのか、と尋ねたところ、明快に否定された。キリスト教の神は、人格があるところが絶対条件で、抽象的な宇宙の力のようなものとはまったく違うというのである。
日本人の多くは特定の宗教を持たないという議論がある。既成の宗教団体に属さないという意味では、確かにその通りだと思うが、日本人に宗教的な感覚がないわけではないと思う。例えば、最近、パワースポットという呼び方で、伝統的な霊地へお参りすることが流行している。これは、日本人の宗教観のひとつの現れだと思う。
この日本人に広く共有されている、宇宙や自然の大きな力への信仰のようなものを、もし言葉で表現するならば、私にはアニミズムという言葉しか思いつかない。
Facebookの宗教欄にアニミズムと書いたのは、キリスト教イスラム教や仏教という高度で文明的な宗教の信仰を持っていないということを自虐的に皮肉った冗談でありつつ、自分の宗教感覚は結局アニミズムとしか表現できないという真剣な気持ちも混ざっている。