地域語としての日本語、国際語としての英語

水村美苗の「日本語が亡びるとき」「日本語で読むということ」「日本語で書くということ」を読み終わった。
彼女は、英語が国際語となった現代の世界において、一地域語である日本語で読み、書くということの意味、また、英語で読み、書くという意味について考えている。
最近、インターネット上で日本語と英語の両方で書いている自分にとって非常に興味深かった。
「日本語で書くということ」の中に、興味深い一節があった。少々長いが引用しようと思う。

 世界言語としての英語―それは、英語というものに対し、生まれながらの権利をもたない人間の使う英語である。二十一世紀が、そのような世界言語としての英語の時代でなるであろうことは、すでに予想されている。今、言葉にたずさわる人間で、母語をさしおいて英語で書こうとする人間の数は地球の上に急速に増え、このままいけば、かれらが英語で書く世界が、即、「世界そのもの」となるだろうからである。その時、英文学―否、英語文学は、即、「世界文学」を意味するようになる。のみならず「世界文学」は必然的に優れたものになる。読み手書き手となる人間の数が圧倒的に多いうえ、そこでは、言語がその本質において外からきたものとして認識されているからである。他の言語で書かれた小説は、過去の栄華も夢と色あせ、質量ともに、どこまでも周辺的なものになってしまうであろう。長い間、インド人の使う英語はアングロ・インディアンと呼ばれ、「真」の英語から隔てられ、まやかしの英語を使ってきたインド人(および他の英国の植民地の人々)こそ、「世界文学」のにない手として、パラディグマティックな存在とも先駆者ともなって当然なのである。
(pp12-13)

世界言語としての英語という概念はよくわかる。実際、仕事でも、インターネットでも、英語を使うときは、ネイティブの英語話者ではなく、第二言語として英語を習得した外国人と、それぞれの「まやかしの英語」でコミュニケーションすることが多い。
日本語話者としては、英語を学習することは困難なことであり、まして、ネイティブの英語話者のような英語を身につけることはできない。しかし、世界言語としての英語の一方言としてのジャパイングリッシュでよいと思えば、気楽になれる。
日本人も、同じように、外国人が話す「まやかしの日本語」も許容するようになるのだろうか。