多文化主義とナショナリズム

lang -8 (http://lang-8.com/)で、オーストラリアの人と中国の人と多文化主義ナショナリズムについて話をした。
そのオーストラリアの人は次のように書いた。(http://goo.gl/lzlrw)


「外国人」と呼ばないで。
(日本から来た人が)オーストラリアにいるときには、オーストラリア人が彼らを「外国人」と呼ぶと思うかもしれない。しかし、私たちは「外国人」とは呼ばない。敬意を持って出身地の名前で、「日本人」と呼ぶ。そして、さらには、「日系オーストラリア人」と呼ぶことで、歓迎の気持ちを表す。その呼び方は、彼らの出身地は知っているけれど、今は私達の一員だという究極の歓迎を意味している。
私は、オーストラリアが多文化主義の国を目指していることは聞いたことはあったけれど、このとき初めて多文化主義が日常生活のなかでどのようなことを意味しているのかわかった。
私も含め、日本人は多文化主義を理解しておらず、「外国人」を「外国人」と悪意なく読んでいるのだと思った。そして、日本のナショナリズムの概念が、日本人が多文化主義を理解できない理由のひとつだろう。
そこで次のようにコメントした。

あなたが「外国人」という呼び方を拒否する理由は分かりました。でも、「国民」という概念は国によって違っています。
オーストラリアへの移民とオーストラリアで生まれた人がオーストラリア人と認識されていると思っています。正しいでしょうか。
しかし、基本的には、日本人の子どもが日本人と考えられています。そのため、大部分の日本人は、日本人になりたい「外国人」が存在するということを想像すらできないのです。
そして、もし、オーストラリアに長年滞在していたとしても、「日系オーストラリア人」と呼ばれたいと思うか疑問です。多分、日本人と呼ばれたいのではないでしょうか。
日本に住んでいる「在日」と呼ばれている韓国人のうち、ある人たちは「韓国系日本人」と呼ばれたいと思っているかもしれませんが、彼らの大部分は「韓国系日本人」と呼ばれることを拒絶すると思います。それは、太平洋戦争以前、日本政府によって行われた同化政策が背景にあります。
日本に住んでいる中国人が「中国系日本人」と呼ばれたいと思っているのか、知りたいと思っています。おそらく、「中国系日本人」とは呼ばれたいと思っていないのではないでしょうか。
オーストラリア人の観点から、「外国人」と呼ばれたときどのように感じるのかは理解できました。しかし、日本人の観点から、日本人が「外国人」を「外国人」と呼ぶ理由も理解してください。
それは、日本における「日本人」「日本国民」「ナショナリズム」という概念が形成された歴史と関係があると思っています。
もし、この問題に興味があれば、ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」(http://goo.gl/lhaHl)を読まれることをお勧めします。
今から160年前、江戸湾に「黒船」と呼ばれるアメリカの艦隊がやってきた時、西洋の帝国主義の脅威によって、近代的な意味での「日本国民」という概念が形成されました。その時、西洋諸国の侵略に対抗するために、日本の人びとは、「日本国民」として団結しなければならないと考えました。だから、「日本国民」という概念は、日本人と西洋人の違いを強調しています。もちろん、日本人は西洋人に対して複雑な感情を持っていて、それは、愛憎が入り交じった気持ちです。
その一方で、日本は韓国、中国、その他のアジアの諸国を侵略しました。韓国や中国の「国民」や「ナショナリズム」は、西洋諸国と日本から自らを守るために形成されました。彼らのナショナリズムは、反西洋、反日の感情が基礎にあります。
実際、韓国の人びとはかつて強い反日感情を持っていました。最近、韓国の日本への感情は劇的に改善されましたが、北朝鮮は今でも反日国家です。韓国の人たちと在日韓国人の人たちは、日本にいい感情を持っていたとしても、彼らの出自に強いプライドを持っていて、日本人と呼ばれたいとは考えていないでしょう。
台湾の人たちは親日的ですが、中国共産党は基本的には反日です。中国は多民族国家です。近代的な意味での「中国国民」「中国のナショナリズム」という概念の源は、民族性や言語ではなく、西洋諸国と日本の反帝国主義です。
歴史を知ることは重要ですが、それとともに、偏見から自由にならなければなりません。
オーストラリア人は多文化主義によって白豪主義の歴史を克服するように決心したのだと思います。
日本人が「ナショナリズム」の暗い歴史を克服することができるか、確信が持てません。
中国の人が、私のコメントに次のように返事をした。

興味深い指摘ですね。私は、「ナショナリズム」は「多文化主義」に対して問題を引き起こさないと考えています。アメリカ合衆国を考えてみてください。私の言いたいことが分かってもらえると思います。
私は、多文化主義ナショナリズムの関係について次のように書いた。

「国民(ネイション)」と「国家(ステイト)」と言う言葉はよく混乱して使われています。
もし、「国民」と「国家」という概念に興味があれば、ウィキペディアの次の記事を読んでみてください。 (http://goo.gl/8v6o2) でも、長すぎて読むのが辛いですね。
簡単に言うと、「国民」とは、アイデンティティを共有して、自らの意志で国を形成している、もしくは、形成すべき集団のことです。一方、「国家」とは国の政治的な組織のことです。「国民」によって「国家」が形成されたときには、その国は「国民国家」と呼ばれます。
ナショナリズムは、その国民のシンボルを共有しているという意識に基礎を置いています。
アメリカ合衆国では、その国民のシンボルは、合衆国憲法、すなわち、アメリカのデモクラシーの理想です。
理念的には、アメリカのデモクラシーの理想を信じ、合衆国憲法に忠誠を誓う人であれば、アメリカ国民の一員になれる。
日本では、国民のシンボルは伝統と出自です。もちろん、それらは本当の伝統と出自ではなく、エリック・ホブスボウムの言う「創られた伝統」ですが。(http://goo.gl/C04Po) ともかく、理念的には日本の人びとは天皇と出自をともにしており、日本国憲法に書かれているように、天皇が日本のシンボルです。
アメリカでは、理念的にはナショナリズム多文化主義は衝突しません。現実には、摩擦はありますが。アメリカには公用語がありません。これは、多文化主義に基づくものだと思います。しかし、英語が事実上の公用語ですし、ある人びとはすべてのアメリカ市民は英語を学ぶべきだと主張しています。
ロシアは国民国家ですが、ソビエト連邦は国家ではあったけれど、ソビエト国民という集団はありませんでした。
共産党ソビエト連邦を支配していた間は、国家を維持していました。しかし、共産党が力を失った後、ソビエト連邦は解体しました。それは、国民国家を形成する理由がなかったからです。
日本では、ナショナリズムの核心は伝統と出自にあるので、ナショナリズム多文化主義は理念的にも現実的にも摩擦を生じると考えています。