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「ノルウェイの森」誤訳問題について

村上春樹「雑文集」を読み終えた。
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」は、ある程度まとまった長さのあるインタビューを集めた本だったが、「雑文集」はいろいろなところに寄稿した短い文章「雑文」を集めたもので、村上春樹の楽屋裏を見るような面白さがある。若い頃の文章を読むと、ああ、彼も若かったのか、と思い、懐かしさも感じる。
そのなかに「ノルウェイの木を見て森を見ず」というエッセイが収録されている。
村上春樹の小説「ノルウェイの森」は、ビートルズの楽曲「ノルウェイの森」という曲名から題名を取っている。そのビートルズの曲名"Norwegian Wood"の翻訳である「ノルウェイの森」は誤訳だという説がある。
村上春樹自身は、ビートルズの曲名をそのまま小説の題名にしたのだから彼自身の誤訳というわけではないのだけれども、村上春樹自身はこの問題についてどう思っているのか気になっていたので、このエッセイを興味深く読んだ。
私見としては、やはり「ノルウェイの森」という訳は誤訳だと思っている。
"Wood"という言葉を辞書*1でひいてみると、次のように書かれている。

wood
1 [uncountable and countable] the material that trees are made of
Put some more wood on the fire.
a polished wood floor
soft/hard wood
Pine is a soft wood.
Her house was made of wood.
a piece of wood

2 [countable] also the woods a small forest:
a walk in the woods
(http://goo.gl/dimKM)

基本的には、"wood"という語は「材木」という意味である。"woods"という複数形になった場合に「小さな森」という意味にもなるという。
"Norwegian Wood"の"Wood"が、uncountableなのか、countableの単数形なのか分からないけれど、素直に考えれば「ノルウェイの材木」という意味になるだろうし、もし、「ノルウェイの森」という意味だったら"Norwegian Woods"でなければならない。
そもそも「ノルウェイの森」を意味したいのだったら、普通は"Norwegian Forest"と表現するだろうし、わざわざ"Norwegian Wood"という表現を選択する理由がわからない。
"Norwegian Beef"という表現があったとしたら、それは「ノルウェイの牛肉」であり、「ノルウェイの牛」ではない。「ノルウェイの牛」を意味したいのであれば"Norwegian Cow"と書かなければならないだろう(ノルウェイに牛がいるのかよく知らないけれど)。
"Norwegian Wood"の歌詞(http://goo.gl/OAoNJ)を見てみると、こんなふうに書かれている。

She show me her room
Isn't it good Norwegian wood?

この節を訳すとすれば「彼女は部屋を見せてくれた(入れてくれた)。ノルウェイの家具(インテリア)ってよくない?」となるだろう。この部分はどう考えても「ノルウェイの森」と訳すことはできない。
しかし、村上春樹はなかなかがんこで、こんな風に書いて、「ノルウェイの森」という題名を擁護している。

 翻訳者のはしくれとして一言いわせてもらえるなら、Norwegian Woodということばの正しい解釈はあくまでもであって、それ以外の解釈はみんな多かれ少なかれ間違っているのではないか。歌詞のコンテクストを検証してみれば、Norwegian Woodということばのアンビギュアスな(規定不能な)響きがこの曲と詞を支配していることは明白だし、それをなにかひとつにはっきりと規定するという行為はいささか無理があるからだ。それは日本語においても英語においても、変わりはない。捕まえようとすれば、逃げてしまう。もちろんそのことば自体として含むイメージのひとつとして、ノルウェイ製の家具=北欧家具、という可能性はある。でもそれがすべてでない。もしそれがすべてだと主張する人がいたら、そういう狭義な決めつけ方は、この曲のアンビギュイティーがリスナーに与えている不思議な奥の深さ(その深さこそがこの曲の生命なのだ)を致命的に損なってしまうのではないだろうか。それこそ「木を見て森を見ず」ではないか。Norwegian Woodは正確には「ノルウェイの森」ではないかもしれない。しかし同様に「ノルウェイ製の家具」でもないというのが僕の個人的見解である。
(p109)

この村上春樹のことばをそのまま受け止めれば、結局、この詞を翻訳することは不可能だということになる。確かに、ビートルズが現在のバンドであれば、この曲名は「ノルウェイジアン・ウッド」と訳されるかもしれない。
翻訳がオリジナルを完璧に再現できないことは明らかだし、そのなかでベスト・エフォートを求めるものだとすれば、「ノルウェイの森」が最善の翻訳ではないことだけは確かだと思う。確かに「ノルウェイ製の家具」ということばは詩的ではないけれど。
また、歌詞の中のコンテクストを見ると、彼女が部屋に入れてくれて、「"Norwegian wood" ってちょっとよくない?」という流れに、それほどアンビギュイティーがあるとも思えない。確かに詩だから、唐突に「「ノルウェイの森」ってちょっとよくない?」という意味ではないとは言い切れないけれど、かなり無理がある。村上春樹にしては強弁しているようで、彼としてもちょっと気になる話題なのかなと邪推してしまう。
村上春樹は、この曲名についてもう一つおもしろい説を紹介している。

 この、Norwegian Woodというタイトルに関してはもうひとつ興味深い説がある。ジョージ・ハリスンのマネージメントをしているオフィスに勤めているあるアメリカ人女性から「本人から聞いた話」として、ニューヨークのパーテイーで教えてもらった話だ。
 「Norwegian Woodというのは本当のタイトルじゃなかったの。最初のタイトルは"Knowing She Would"というものだったの。歌詞の前後を考えたら、その意味はわかるわよね?(つまり、"Isn't it good, knowing she would?)彼女がやらせてくれるってわかっているのは素敵だよな、ということだ)でもね、レコード会社はそんなアンモラルな文句は録音できないってクレームをつけたわけ。ほら、当時はまだそういう規制が厳しかったから。そこでジョン・レノンは足跡で、Knowing She Wouldを語呂合わせでNorwegian Woodに変えちゃったわけ。そうしたら何がなんだかかわかんないじゃない。タイトル自体、一種の冗談みたいなものだったわけ」。真偽の程はともかく、この話はすごくヒップでかっこいいと思いませんか?もしこれが真実だとしたら、ジョン・レノンって人は最高だよね。
(p111)

確かにいい話だと思う。"Norwegian Wood"より"Knowing She Would"の方がしっくりくるし、くだらない規制をかいくぐる言葉遊びは、LSDを意味しているという"Lucy in the Sky with Diamonds"のようでかっこいい。
そもそも、このころの海外の楽曲の曲名の翻訳は適当なものが多くて、"I Want To Hold Your Hand"が「抱きしめたい」という曲名になっている。稲本(id:yinamoto)が、「握り締めたい」だろ、と言っていたのを覚えているが、ま、確かに「抱きしめたい」という訳はないだろうと思う。
そう考えれば、"Norwegian Wood"の訳が何であっても、どうでもいいことなのかも知れない。誤訳かもしれないけれど、ともかく「ノルウェイの森」という曲名が流通してしまっているから、日本語ではあの曲はもう「ノルウェイの森」としか呼びようがない、ということなのだろう。

村上春樹 雑文集

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夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

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ラバー・ソウル

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サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド

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【2016/10/24 追記】

ノルウェイの森」誤訳問題について、新しい情報を発見したので、追記したい。
ポール・マッカートニー「告白」という本のなかで、ポール自身が次のように語っていた(p318)。

たとえば<ノーウェジアン・ウッド>では、女のの部屋の木製家具をほめそやしていた男が、最後にはその部屋を燃やしてしまう。それは女が男にやらせようとしなかったからだ。それがあの曲のちょっとしたひねりだった。

作者自身の解説、意図が絶対とはいえないけれど、「ノルウェイ製の家具」説の傍証になるだろう。
一方、ポールは自分の曲について次のようにも語っている(pp324-325)。

 ぼくの曲はそうだ。よくやるんだけど、ひとつ以上のとらえ方ができる。ぼくはリンダと結婚し、彼女に恋していたけれど〔即興でうたう〕「ぼくとリンダとで、ドライブに出かけた…」みたいな曲は、一度も書いたことがない。なんだかきまりが悪いし、うまく行くとも思えないからだ。ぼくとしては「ぼくたちふたり(トゥ・オブ・アス)」と書くほうがすっきりするし、おかげでちょっとした謎も生まれる。
「どのふたりのことを言ってたんですか?」

 そうやって、いくらでも解釈できるところがいいんだ。まさしく魔法だよ。

*1:余談だけれど、このlongmanの辞書は、解説が平易で、また、言葉のニュアンスも説明してくれるので、私程度の英語力の学習者にとって使いやすい。紙の辞書も持っていて、昔から愛用している。