インドから日本への仏教の旅

一昨日、日本人の持つ無常観や諦観についての記事(id:yagian:20110502:1304285422)を書いた。
それに対して次のようなツィートがあった。

返信を書こうと思ったけれど、とてもツィッターの文字数では書ききれないので、新しい記事を書くことにした。
確かに、絶対的な神という存在を信じ、それが世界観やアイデンティティの基礎にある一神教徒から見ると、絶対的な存在を信じることなく、無常観や諦観を持っている仏教徒ニヒリズムに陥らないのが不思議だと思うのはよくわかる。
けれども、一神教の考え方を純粋化した予定説やイスラームの考え方に従うと、世界のすべては神の意志に委ねられることになり、個人の意志が介在する余地がなくなるため、それはそれでニヒリズムに陥るのではないかという疑問もある。もちろん、そんなことは私が疑問に感じるぐらいだら、キリスト教イスラームの中でも神学的な議論があるようだけれども。
それはともかく、無常観や諦観がニヒリズムに陥らない理由について、二つの方向から説明できると考えている。
ひとつは、無常観や諦観は一見ニヒリズムに通じるように見えながらも、逆説的にポジティブな思考、行動の基礎になっているということだ。直感的にはこれは正しい方向だと思っている。また、今回の震災で厳しい状況の中前向きな気持ちを保っている人の姿を見ると、まさにこの逆説を体現しているようにも思う。しかし、一昨日の記事でも触れたけれど、今の自分の力、理解では、このことをロジカルに説明することは難しい。その内容がいかに厳しくとも、世界や自分について正しく理解すること、すなわち無常観や諦観が、正しい思考、行動の基礎になると漠然と考えている。今は、これ以上の説明はできない。
もうひとつは、仏陀自身の教え、初期仏教の教えが持つ純粋さやそれによる厳しさから、仏教が変質し、現代の仏教には厳密な意味での無常観や諦観はない、ということがあるのだと思う。
過激な修行を否定し、無常観や諦観を主張する仏陀自身の教えは、当時のインドのなかではカウンターカルチャーだったのだろうし、また、大衆化するにはあまりに高踏的な内容だと思う。仏教が布教、伝播される過程で、初期仏教の持つ純粋さは、肯定的に言えば改革され、中立的に言えば変質し、否定的に言えば堕落したのだと思う。
仏陀自身は、自らを死にゆく有限な存在と考えていたはずだ。また、そのことを自ら受け入れ、さらに、弟子たちにも受け入れるように教えていたのだと思う。そのような立場から言えば、仏教徒が優れた先達として仏陀を尊敬するのは当然だけれども、仏陀を崇拝することは自らの解脱のために役立つことはない、ということになる。
そのような初期仏教の立場からすれば、偶像崇拝ほど彼らの考えに隔たったものはないと思う。事実、初期仏教では仏像が造られなかった。
しかし、普通の人びとが宗教に求めているのは、厳しい真実の認識、無常観や諦観ではなく、聖なる存在への崇拝を通じた安心感なのだと思う。ギリシャ彫刻との接触を通じて仏像が造られるようになったのは、その意味では当然だけれども、初期仏教が持っていた純粋な無常観や諦観は損なわれたのだと思う。
タリバーンによってバーミヤンの仏像が破壊された。平山郁夫が生前、破壊された姿のままに保存するように主張していたというが、仏教的な考え方からすればその通りだと思うし、私自身も共感する。仏像という物質的な存在が永遠のものであるはずはないし、ある時それが破壊されることも有りうべきできごとである。その事実を直視するためのものとして、破壊された仏像をそのままの姿にしておくのは自然な考え方だと思う。
同じようなことはキリスト教にも言えるのだと思う。より純粋な一神教であるイスラームから見れば、キリスト教偶像崇拝唯一神以外への信仰、また、イエス・キリストという神とも人間ともつかない存在の肯定と、一神教から逸脱している要素が多い。しかし、その部分がキリスト教の魅力にもなっている。また、キリスト教偶像崇拝しているとは言っても、神そのものの像は造らないし、崇拝もしていない。人間は神の形に似せて作られたのだから、キリスト教においても神像を作ることは可能なはずだけれども、そこは一神教としての一線を踏みとどまっているということかもしれない。
初期仏教の考え方に素直に従えば、救済、ということがもし仏教にあるとしても、それは個々人が自ら悟りに到達するしかなく、また、その悟りも普通の意味で安心をもたらしてくれるようなものではない。
大乗仏教では、自らが悟りに到達することができない人びとをいかに救済するかということを考える。宗教としてそのような方向で考えるのは当然なことだけれども、初期仏教の考え方からすれば逸脱している。人びとを救済しうる、という考え方そのものが無常観、諦観とは相容れない。仏陀自身は、人びとを救済する阿弥陀仏というような存在を否定していると思うし、そのような存在を偶像で表現して崇拝するという考え方は初期仏教から出てくるものではない。
私の実家の宗派は浄土真宗である(私自身は真宗の宗徒ではないけれど)。一時期、興味を持って親鸞についていくつか本を読んだことがある。自力を放棄したというのは、本来の仏陀の教えからは大きな逸脱で、その意味では本質的には浄土真宗は仏教ではないと思う。
私自身は、初期仏教やテラワーダ仏教(いわゆる小乗仏教)に親近感を感じているけれど、大乗仏教や鎌倉新仏教を否定しているわけではない。ただ、そこには純粋な無常観、諦観は失われており、その代わりに人々に安心を提供する存在、さまざまな仏や偶像、儀礼などが含まれている。ツィートに書かれていたアメリカ人が疑問に感じるようなニヒリズムに通じる無常観や諦観に支えられた仏教は、少なくとも日本や中国にはもはや存在しないのだろう。
仏教がインドにおける多様な宗教運動のひとつとして消え去らず、現代まで続く世界宗教に飛躍するには、このような変質は必要なことで、とにもかくにも仏陀の教えが現代まで伝えられているという意味では、大乗仏教の功績は大きいと思う。
中国や日本で大乗仏教が普及した理由として、インドにおいては仏教と不可分な輪廻という考え方が中国や日本には存在していないということがはあるのだろう。初期仏教がある意味救いがないように見えるのは、現代の日本人の観点からは、現世で悟りに至るのが不可能に見えるからだと思う。インド的な観点からは、現世で悟りに至るというようなことははじめから考慮の外で、永遠に近い時間輪廻を続け、その中で悟りに至るということを発想している。輪廻という観念がなく、現世において救済を求めようとする中国や日本において大乗仏教が普及したのは当然である。アメリカ人が疑問に感じたように、中国や日本においては、多くの人々(もちろん私もその一員である)は純粋な無常観や諦観に耐えることはできなかったということだろう。
一方、輪廻と自力を前提とするスリランカやタイのテラワーダ仏教を見ていると、ニヒリズムとは正反対の明るさがあるように思える。その明るさの中に、無常観や諦観が逆説的にポジティブさや人生への確信に繋がるカギがあるように思う。
まったくおせっかいな話だけれども、そのアメリカ人は、日本よりはスリランカやタイの仏教徒に触れたほうが答えに近づくことができるような気がする。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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大仏破壊―ビンラディン、9・11へのプレリュード (文春文庫)

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タイの僧院にて (中公文庫 あ 5-1)

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