志ん朝と談志、江戸っ子と東京人

稲本のウェブログ(id:yinamoto)に、志ん朝と談志について書かれたエントリーがいくつかある(id:yinamoto:20110513, id:yinamoto:20110502, id:yinamoto:20110211)。それを読んで思いついたことを書こうと思う。
はじめに書いておくけれど、私自身は稲本のように落語の熱心なファンという訳ではない。志ん朝も談志もライブで聴いたことはないし、談志の書いた本も読んだことはない。子どもの頃、噺家はよくテレビに出ていて、志ん朝も談志もスターだったから、よく見かけた覚えがある。志ん朝と談志のCDは何枚か持っていてたまに聴くことがある。まあその程度だから、これから書くことは単なる印象論で、論拠を示せといわれても困ってしまう程度の話である。
誰しも同じ印象を抱いていると思うけれど、志ん朝はほんとうにナチュラルな江戸っ子である。彼の落語を聞いていると、江戸に暮らしていた庶民が目の前にいるようだ。特に、彼の演じるおかみさんが大好きで、私の祖母が若かった頃はあんな感じだったんだろうなと思う。江戸っ子にもいろいろなタイプがあるけれど、やや甲高い声でおねぇ言葉っぽく話す、永六輔を想像してもらえればいいと思う、そんなタイプである。
一方、談志は江戸っ子というより、東京人、それも山の手の、という印象がある。もちろん、江戸の文化や演芸への造詣は深いし、それも身についたものになっているのだろうけれど、江戸の内部の人というよりは、東京山の手という視点から江戸を眺めている人という感じがする。
江戸っ子や東京人という言葉には、きちんとした定義があるわけでもないし、それぞれの人がそれぞれのイメージ、思いを投影しているから、私の感じ方と違う人も多いだろうと思う。私自身は、東京北区の生まれ育ち、現在は豊島区雑司が谷に暮らしている。北区は朱引きの外で、残念ながら江戸ではない。しかし、山の手と呼べるようなハイソな土地柄ではなく、場末の二流の下町といったところである。中央区墨田区や葛飾区ように胸を張って下町ですとは言えず、いまの言葉で言えばまさに「モヤモヤ」している。江戸っ子ではないけれど、まあ、東京人の端くれであることは間違いない。荒川区や足立区、もしかしたら板橋区の人はこの気持ちがわかってくれると思う。
そんな北区出身者の目から見ると、志ん朝は純正江戸っ子であり、談志はもしかしたらこっち側の人かもしれない、という意味で東京人という気がする。
談志を見ていると、永井荷風を思い出す。彼も江戸文化への憧憬が強い東京人なのだと思う。同じ江戸を描いた文学者でも、成島柳北饗庭篁村はまさに江戸っ子で、江戸の内部からその世界を描いていると思う。しかし、永井荷風は同じ江戸の世界を描いていても、江戸そのものというより「江戸風」の世界を外の視点から書いているように思える。談志もそんなところがあるのかなと想像したりする。
成島柳北饗庭篁村は近代以前の世界に生まれた人だから、そのまま江戸っ子でいられる。永井荷風は近代人だからそのままでは江戸っ子ではいられない。そう考えれば志ん朝だって近代人だからそのまま江戸っ子であるはずはないけれど、彼の周辺には前近代の空気が漂っている。一種、奇跡的な存在である。
成島柳北饗庭篁村は前近代の文人だから、理屈をこねるのは風流ではないと思っていたのだろう、反薩長の気持ちは強かったはずだけれども、あからさまにそれを書かずに、よき江戸の世界をさらりと書いて見せた。志ん朝はべつに反薩長というわけではないが、理屈をこねるよりは、江戸っ子としての落語をさらりと演じようと思っているところは近代人としての自我をあまり感じさせず、前近代的だと思う。
一方、談志の偏屈さは、永井荷風に通じている感じがする。もともと永井荷風はパリへの郷愁を売りにしてデビューし、その対象がしだいに江戸に移っていった。談志も江戸に限らず、西洋の映画や音楽にも関心が深い。成島柳北饗庭篁村志ん朝は、江戸以外の世界については描くことはできないけれど、談志や永井荷風は江戸以外の世界でも一家を構えることができたようにも思う。実際、永井荷風はそうだった。自分の外部のもの、江戸やヨーロッパの世界を愛好し、その中に没頭しようとしつつも、本来的には内部に入り込むことができないという存在、それゆえ、偏屈にもなり、自分の好みについて理論武装する必要が生じるように思う。そういう意味で、彼らの偏屈さは近代人のものであり、談志が本を書くのも近代的自我が書かせるのだろうと思う。
志ん朝は、そもそも江戸っ子であり、自分の江戸っ子性はあまりにも自明のものであって、理論武装も説明も必要なく、またすることもできない。江戸っ子の噺家が江戸の噺をする、それ以上でも以下でもない。
私自身は、志ん朝の噺を聴いて、のほほんと幸せな気分になるのが好きだけれど、現代では、ある意味、談志タイプの噺家しか成立しようがないのだろうなと思う。