建国神話と天皇タブー

今谷明「室町の王権」を読んだ。
足利義満天皇家から権力、権威を奪取しようとしていたという仮説について書かれた本である。室町時代についてはあまりよく知らなかったから、いろいろと勉強になった。
足利義満という人物は、天皇家に取って代わろうとしたこと(「室町の王権」が正しければ)、中国に冊封関係を結び日本国王と認められたこと、南北朝の騒乱に決着を付けて室町幕府の権力を確たるものとしたことなど、日本の歴史上、非常に個性的かつ重要な存在だと思う。しかし、その割には彼のことは歴史小説などには取り扱われていない。
今日もまた稲本のウェブログ(id:yinamoto:20110422)をネタにして申し訳ないけれど、彼は日本の「神話」はいわゆる天地開闢の物語としての記紀の「神話」に限られず、歴史小説などによく取り上げられる戦国時代や幕末の物語は「建国神話」として機能しているのではないかと書いている。まったく同感である。
稲本が引用している「世界で最も人気がある国、ニッポン」(http://goo.gl/UNHbw)という記事では、記紀の「建国神話」を歴史として学校教育が取り上げていないことを批判しているが、たしかにこれは的外れだと思う。「建国神話」を国民国家の国民統合のための物語と捉えれば、稲本がいうように、記紀天地開闢譚に限らないだろう。
アメリカ合衆国では、ネイティブアメリカンの世界創造の神話が、国民的な「建国神話」ではない。ボストン茶会事件から独立戦争にいたる物語、南北戦争におけるアメリカ合衆国の再統合と奴隷制度の廃止によるアフロ・アメリカンの国民への統合(リンカーンによるゲティスバーグの演説” government of the people, by the people, for the people”)、歴史を下ればマーティン・ルーサー・キングによる” I Have A Dream!”の演説などがアメリカ合衆国の「建国神話」に相当するのだろう(ちなみに、マーティン・ルーサー・キングの誕生日は祝日になっている)。学校教育では当然これらの歴史を教えているだろうし、アメリカ合衆国の国民としての帰属意識、アイデンティティ、誇りの源になっているのだろう。
フランスでは、共和制が確立したフランス革命をめぐる物語や第二次世界大戦におけるレジスタンスの物語などが「建国神話」に当たるのだろう。
国家は、継続しても、「建国」に相当するような重要な時期、できごと、物語は、天地開闢やまさに建国の時期に限られない。新たに国家や国民が創造、再生されるような「建国」の時期、事件はさまざまな時期に起きているし、その物語が「建国神話」足りえるかは国民国家の統合のシンボルとなる力があるかということなのだろう。
その意味では、幕末から明治の物語は、まさに国民国家としての近代日本の成立を語る「建国神話」だと思う。多くの歴史小説が幕末から明治の時代を扱っているのは、稲本の言うように「建国神話」として国民に好まれているという背景があるだろう。司馬遼太郎がしばしば国民的作家と呼ばれるのは、「坂の上の雲」という現代の「建国神話」の代表的な物語を書いたからだと思う。
現代日本において、記紀の神話を教育したところで、日本人としての帰属意識、アイデンティティが強化されるとは思えない。私は、別に、国民としてのアイデンティティを強化する教育をすべきだとは考えていないけれど、その目的であればNHKのドラマ「坂の上の雲」を学校で見せた方が、よほど効果があると思う。
戦国時代から安土桃山時代も、ある意味「建国」の時期だったのだと思う。戦国武将によって分裂していた日本が、信長、秀吉、家康によって統合されるプロセスはまさに「建国」そのものである。また、現代日本人の考える「伝統的な日本」の成立した時期は、戦国時代から安土桃山時代でもある。例えば、「源氏物語」を読んでいると、平安時代はあまりにも文化、風習が違っていて別の国のようであり、あのライフスタイルを「伝統的な日本」と感じる人は少ないだろう。また、日本における地域社会、地域文化は、戦国時代の領主の境界と江戸時代の藩を単位として形成されているから、それぞれの地域にそれぞれの「英雄譚」がある。その意味でも、「建国神話」の宝庫であるのだろう。
学校教育で記紀神話が教えられなくても、戦国時代、安土桃山時代、幕末から明治の時代をテーマとした歴史小説や映画、テレビドラマが繰り返し作られ、主要な「英雄」のエピソードが国民共通の常識として記憶されていき、「神話」が共有され、国民の統合が強化されている。
記紀については、近代の歴史学の批判的研究によって「歴史」としては扱われなくなったし、一般の人々も「歴史」としては考えていない。「スサノヲ」の事跡を史実だと考える人はいないだろうけれど、うっかりすると「竜馬が行く」のエピソードを史実と混同している人はそこここにいる。もちろん、「竜馬が行く」も「坂の上の雲」も「小説」であって「史実」ではない(ちなみに、塩野七生の「ローマ人の物語」も、もちろん本人がそう名づけているように「物語」であるが)。まさに「神話」である。
足利義満後醍醐天皇南北朝の騒乱の時期はなかなか興味深く、また日本の形成に大きな影響を与えた「建国」期だと思うけれど、現代の日本においては「建国神話」としての「物語」は書かれていない。
戦前は楠木正成が忠君の代表者として顕彰され、「建国神話」の重要な一部を構成されていた。しかし、現代においては楠木正成を忠君として描くわけにいかない。南北朝の騒乱を書くには彼を扱わないわけにはいかず、難しい点があるのかも知れない。しかし、中世の「悪党」研究の成果を踏まえて、まったく新しい楠木正成像を提示する歴史小説があれば、ちょっと読んでみたい。
また、この時代を描くと天皇タブーに触れざるを得ないという危険性はある。戦前、南朝が正統とされていたけれど、実際には昭和天皇今上天皇北朝の子孫だという大きな矛盾がある。この時期を描くと、南朝北朝のいずれが正統かという問題に触れざるを得ず、書きにくいという事情があるかもしれない。また、後醍醐天皇足利義満の扱いも、天皇観を問われるところがある。現代では、天皇親政を目指し結局失敗した後醍醐天皇を礼賛し、足利家を悪者にするという立場では歴史小説は書けないだろうけれども、後醍醐天皇を否定し、足利家を称揚すると天皇家の否定になりかねない。
戦国時代や幕末、明治時代の歴史小説も、直接的に天皇を扱うことは少ない。戦国時代において、信長と天皇の間にはさまざまな摩擦があり、秀吉は関白となる、家康は征夷大将軍になるという形で朝廷とかかわりを持った。天下統一を目指す武将たちは、天皇の存在をめぐり、京都を目指していた。しかし、この時代の天皇については名前も含めて歴史小説に現われることはほとんどない。
また、幕末においては、孝明天皇は重要なプレイヤーだったし、明治天皇は京都の宮廷から東京に遷都して近代天皇の祖となったという意味ではきわめて重要な存在である。しかし、彼らを中心に据えた歴史小説はあまり見たことがない。孝明天皇天皇でありながらも佐幕派であり、薩長による討幕の障害になっていた(だからこそ、暗殺説があるわけだが)。その意味では、近代日本の天皇制の立場からはやや都合の悪い人物である。私は反薩長佐幕派だから、孝明天皇を中心においた歴史小説があれば読んでみたいと思うけれど。
右翼の人の多くは天皇を顕彰して、国民統合の中心に置きたいと考えている。そのために、天皇の起源に関わる「建国神話」を学校教育で扱いたいと主張する。しかし、記紀神話は現代においては国民統合のシンボルとしての力を失ってしまっている。その間隙を埋めているさまざまな歴史小説、物語では、天皇に触れることが天皇制そのものの是非を問うことになってしまい、直接天皇を扱うことはないという皮肉な状況になっている。
それにしても、天皇制の意味の根幹に関わることについて、研究すること自体にはまったく制約はないようだけれども、歴史小説の分野ではまだ天皇タブーが存続しているように見える。天皇タブーがなくなれば、天皇制も解体してしまう、ということかもしれないけれど。

室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)

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坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)

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竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

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ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)

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