ロックの死

ベン・フォールズのライブに行った感想を英語版ウェブログに書いた(http://goo.gl/CIjr3)。
そのなかで、村上春樹ウィントン・マルサリスについて批評しているエッセイの一節を引用した。簡単にまとめると、ジャズにはもはや新しい音楽を創造する生命力は失われており、マルサリスの世代にとっては「伝統芸能」のように研究し、再現する対象だという。
私も、ロックは1990年代にヒップホップに殺されたと考えている。その後のロックは、過去の遺産の引用に終始するようになったと思っている。コピーを聞くくらいなら、オリジナルを聞いた方がいいから、私自身もっぱら1960年代、1970年代のロックを聴いている(そのなかで、ベン・フォールズは例外的に今でも新譜を買うロック・ミュージシャンである)。
一昨日、教育テレビで細野晴臣の音楽を回顧する番組(http://goo.gl/iSBIA)を見た。そのなかで、細野晴臣Corneliusの(というか、そのものの)小山田圭吾くるり岸田繁が対談していた。
細野晴臣は日本のロック(ロックという範疇を越えているけれど)の前衛の歴史そのものという存在である。彼自身は、常に既存の音楽(かつて自分が作った音楽も含めて)を乗り越えようとしてきた。その彼が今は古いアメリカのポップミュージックに向かっている。ある意味、現代のロックにはもはや新しいものを見つけられないということなのかもしれない。
小山田圭吾岸田繁は現代の日本のロックの最前線にいる人たちである。細野晴臣がロックから離れているのならば、それを否定して新しいロックを作らなければならない立場の人たちである。おそらくは細野晴臣は、上の世代を否定した音楽を作ってきたのだろう。しかし、小山田圭吾岸田繁細野晴臣を先生のように接していた。まさに、ウィントン・マルサリスがジャズを「伝統芸能」のように研究するように、彼らは細野晴臣を「伝統芸能」の偉大な先達のように接していた。
稲本が書いているように(id:yinamoto:20110502)、細野晴臣の前には広々とした荒野が広がっていたけれど、小山田圭吾岸田繁にはニッチしか残されていないということかもしれない。
同じようなことは、音楽にも限らず、ポップ・カルチャー全般、いや、ハイ・カルチャーも含めておきているような気がする。ファンション・デザインの世界でも、ココ・シャネルとかイブ・サンローランピエール・カルダンのような巨人というのはもう出てこないように思う。
私自身、ヒップホップにはなじめず、古いロックを聴いている。それをさびしいと考えることもできるだろうし、ジャンルが必然的に迎える成熟期に入り、ある意味、新しいチャートを気にせず、本当に自分が気に入った音楽を聴くことができることを歓迎することもできるだろう。
今回のベン・フォールズのライブはすばらしかった。ビートルズレッド・ツェッペリンの来日コンサートと比べれば音楽の質は高いかもしれないけれど、新しいことに立ち会うという歴史的な事件性というものはもはや存在しない。しかし、私のiPod Classicには、その時代にはまとめて聴くことができなかったロックの遺産が詰まっている。
それでいいのだ。それでいいのか。

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

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