核兵器と倫理

下の記事で、村上春樹カタルーニャ国際賞のスピーチでの被爆国としての日本における原子力発電の位置づけに違和感を感じたことを書いた。具体的に言えば、被爆国としての日本の倫理と原子力発電を結びつけることに納得がいかなかったということだ。
しかし、核兵器と被爆国としての日本については、倫理的な関係は深いと考えているので追記をしようと思う。
日本が自ら核兵器を持たないということには国民的な合意があると思うし、その背景にはもちろん被爆国としての経験があるのは間違いない。
しかし、自らが核兵器を持たないことを選択したとはいえ、アメリカの核の傘に入り、日本にあるアメリカ軍の基地に核兵器が持ち込まれていることを事実上許容しているのは、この意味で倫理のもとるだろう。しかし、倫理と安全保障という狭間にあって、難しい問題だと思う。
私自身は倫理的なやましさを感じつつも、自らの安全のためにアメリカの核の傘の下にいることは積極的に肯定している。消極的な肯定、暗黙の是認というのは「卑怯」な立場と思うからだ。海外から見れば、自らが核兵器を持たないことと、アメリカがその代理をしていることには大きな差がないようにみえるかもしれない。
非核三原則を世界的に公言し(あまつさえ、佐藤栄作ノーベル平和賞を受賞している)、実態としてはそれを裏切っていたということは欺瞞でしかない。もちろん、その当時の反アメリカ的な世論に対するマキャベリズム的な対応なのだろうけれど、これは明確に倫理にもとると考えている。