沖縄の人は歴史を背負っている

伊波普猷の「古琉球」を読んだ。
近世以降の沖縄は苦難の歴史の連続で、沖縄の人たちは必然的に重い歴史を背負っている。
以前、沖縄出身の人と心霊スポットについて話をしていたときに、その人が軽い調子で「沖縄って戦争があったから心霊スポットが多いんだよね」と言った。非常に重い内容だと思うけれど、口調があまりに普通だったので、逆に印象に残り、今でも忘れられない言葉になっている。
以前のエントリーで、登川誠仁の自伝「オキナワを歌う」について書いたことがある(「ウーマク誠小の歌と人生」id:yagian:20110419:1303157863)。彼が戦中戦後の沖縄の歴史を背負っているとしたら、伊波普猷は近代化、日本化の歴史を背負っている。
明治維新後、沖縄では日本政府によって同化教育が行われた。例えば、内地からやってきた教師が、生徒が方言を話すと「方言札」という板切れを首から下げるようなことが行われていた。県立中学校に入学した伊波普猷は、そのような教育に反発して「中学校ストライキ事件」に連座して、退学することになる。
その結果、内地の中学、高校、東京帝国大学に入学して言語学を専攻する。
卒業後、沖縄に戻ってきた伊波普猷は、沖縄県民を啓蒙する活動をはじめ、精力的に講演、新聞記事の執筆をする。「古琉球」にもその頃書かれた新聞記事が収録されており、伊波普猷の熱意が感じられる。
しかし、沖縄では彼の啓蒙活動は必ずしも受け入れられず、挫折する。その後、柳田國男折口信夫などとの出会いがあり、琉球王国時代の古歌集「おもろそうし」の研究などを行い、沖縄学の祖と呼ばれるようになる。晩年、再び東京に戻り、学究生活を送る。没年は昭和22年だが、沖縄戦を体験することはなかった。しかし、東京でそのニュースを聞いていたという。その心痛は想像にあまりある。
「古琉球」のなかで、八重山を襲った海嘯のことが書かれている。八重山にはあのきれいな海を見に行くためによく行く。今の八重山は素朴な、しかし、気持ちのよい島々だけれども、やはりそこにも苦難の歴史があった。今回の震災と津波のことを考えあわせると、複雑な気持ちになる。

…明和八年(1771)の大海嘯のため悉く水泡に帰した。当時八重山から首里政府に報告した古文書によると、この時の海嘯は石垣島の東南からやって来て、殆ど島の半分を洗い、役人八十九人、人民九千四百余人、その他牛馬船舶などをさらっていった。…安永四年(1775)の二月に疫癘と飢饉が一緒にやって来て、同七年の二月まで猖獗を極め、三千七百三十六人の人がその犠牲になった。…大海嘯以来の傷はまだ癒えない。誰が何といっても、昔の八重山は今の八重山よりは進んでいた。島庁まで設けて色々のことをやっているにもかかわらず、西表島が無人の境になりつつあるのは、昭代の一大恨事といわなければならぬ。
(pp333-334)

ここには、海嘯の被害とマラリアのために西表島がほぼ無人島になったことが書かれているが、その西表島の状況について渋沢敬三が書いた衝撃的な記録がある。これも以前のエントリーに書いたことがあるのでリンクを張っておこうと思う(「西表島の炭鉱労働」id:yagian:20070127:1169866423)。ぜひ読んでいただきたい。
宮古八重山地方に行くと、石垣島がもっともひらけていて、宮古島には素朴な田舎という印象がある。琉球王国時代に、宮古島の領主が八重山諸島を征服したというエピソードを聞くと意外に感じる。しかし、石垣島は大海嘯で大きな被害を被り、石垣島西表島マラリアが猖獗を極めたという。今ではほんとうに離島になっている波照間島から石垣島を開拓するために有病地に強制的に移住させられた歴史があるという。今の宮古八重山地方の美しい海を眺めていると想像もつかない歴史である。
今回の福島第一原子力発電所の事故で、原子力発電所の労働現場の苛烈さがあきらかにされた(実際には、すでにあきらかにされていたかれど、そのことに関心を持つ人が増えたということだけれども)。この西表島の炭鉱も日本の裏面史として記録に残し、共有すべきことだと思う。
最近、何を考えていても、結局ここに行き着いてしまう。

古琉球 (岩波文庫)

古琉球 (岩波文庫)

オキナワをうたう―登川誠仁自伝

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祭魚洞雑録;祭魚洞襍考 (渋沢敬三著作集)

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