「原子力村」の解体

吉岡斉「原子力の社会史」

吉岡斉「原子力の社会史」という本を読んだ。科学史家がまとめた日本の原子力開発の詳細な歴史である。実に興味深く、勉強になる。残念なことに絶版になっており、図書館で予約してようやく借りることができた。
もんじゅの事故と動燃の隠蔽(みなさんご記憶でしょうか)までの時代で記述が終わっている。ぜひとも地球温暖化以降の状況と福島第一原子力発電所の事故の影響を追記した新版として再版してほしい。

原子力村」とは

少々長くなるけれど、「原子力の社会史」から、日本の原子力開発、原子力産業を推進してきた主体について書かれている部分を引用したい。

…次に、日本の原子力開発利用体制の第二の構造的特質である「サブガバメント・モデル」(subgovernment model)の支配ということについて、基本的な説明をおこなっておく。このキーワードはアメリカで発明されたものである。それは、ある特定の公共政策分野において、政治家・官僚・業界人からなる一群の集団が、高度な自律性をもち、それが国家政策の決定権を事実上独占するような状態を表現するモデルである。たとえば安全保障政策の分野では、多くの政治学者がそうした「サブガバメント」が実在すると考え、「軍産複合体」(military-industrial complex)や、あるいは「鉄の三角形」(iron triangle)などと命名した。原子力政策についても、原子力委員会AEC(Atomic Energy Commission)、両院合同原子力委員会JCE(Joint Commitee on Atomic Energy)、ゼネラル・エレクトリックGE社やウェスティングハウスWH社などの有力メーカー、ベクテル社をはじめとする有力エンジニアリング企業などが、強力なサブガバメントを形成していると、多くの政治学者が考えた。ただしアメリカでは、サブガバメント・モデルは、主として原子力開発利用を含む安全保障関連分野において、きわだった形で君臨し、またそれゆえに政治的批判の俎上に載せられてきた。
 それに対して日本では、ほとんどすべての政策分野で、このモデルが支配してきた。つまり「官産複合体」(government-industrial complex)があらゆる政策分野で形成され、意思決定過程を事実上占有してきたのである。それが日本とアメリカとの大きな相違点である。つまり日本では、行政機関が政策的意思決定を事実上支配し、国会は行政当局の決定をくつがえしたり、独自の決定をおこなったりする能力を欠いていた。また政権交代が行政に影響を及ぼす度合いも低く、まれに政治家のイニシアチブが発揮されるばいいでも、その影響力は官僚機構によって薄められるケースが多かった。…
…さらに行政当局そのものが、総理大臣の基本方針とリーダーシップにしたがって諸官庁が協力しあって政策を推進する組織ではなく、個別省庁ごとに縄張りが作られ、その縄張りのなかで個別省庁が自律的に政策を決定し、それを内閣がまるごとオーソライズしてきたのである。…そうしたサブガバメント・モデルのものでの意思決定は、官庁と業界というサブガバメントの構成員の権益を順風時には拡大し、逆風時でもそれを大きく損なわない、という原理に見合う形で、おこなわれてきた。その意味では政策的意思決定は事実上、利益本位のインサイダー談合の性格をおつものであった。そしてその談合結果が、そのまま国策としての権威をもって君臨してきたのである。
原子力政策においても、電力・通産連合と科学技術庁グループの二つの勢力の連合体としてサブガバメントが運営されてきた。両者の合意にもとづく原子力開発利用の方針を、国策としてオーソライズするうえで、中心的役割を果たしてきたのが、1956年1月1日に発足した原子力委員会である。原子力委員会は法律上は日本の原子力政策の最高意思決定機関であり、その決定を内閣総理大臣は十分に尊重しなければならないと法律に明記されている。また原子力委員会は、所掌事務について必要あるときは、内閣総理大臣を通じて関係行政機関の長に勧告する権限をもつ。しかし、原子力委員会がみずから政策形成上のイニシアチブを発揮したケースはほとんどなかった。それは事実上、原子力共同体を形成する関係所管庁および関係業界の、利害調整の場として機能してきたのである。
(pp24-26)

ここに描かれている原子力開発、産業を事実上支配するサブガバメントは、「原子力村」と呼ばれてきた。吉岡氏が指摘するように、日本の政策はこのようなサブガバメント「村」に分断されている。
補足すれば、政治家は影響力が小さいかのように描かれているが、決してそういうわけではない。確かに、官僚が作成した法律案が国会で大きく変更されることは少ないが、それは、「族議員」と呼ばれているサブガバメントに属している政治家が国会に提案される前にインサイダーで影響力を行使して、自らに都合の良い法律案にしてしまっているからである。
もちろん、政治家もサブガバメントに取り込まれているから、サブガバメント自身を解体したり、サブガバメントの利害に反する主張もしない。その意味では、政治家としてのイニシアチブを十分発揮していないといえなくもない。

原子力村」の発達

再び、「原子力の社会史」から引用したい。

 日本で原子力発電所原発)が、次々と運転を開始したのは1970年代に入ってからである。そしてこの章の冒頭に述べたように、70年代に営業運転を開始した発電用原子炉は全部で20基を数えた。つまり年平均2基である。80年代以後も、日本の原発建設はおおむね年2基弱のペースで進められた。…日本の原子力発電は90年代半ばまで、ほとんど「直線的」ともいえる安定したペースで拡大し続けてきたことがわかる。
 これはきわめて興味深い現象である。いかなるビジネスも社会情勢の変化にともなう浮沈を免れず、発展の諸条件に恵まれた時期にはハイペースの成長をするが、そうでない時期には停滞を余儀なくされるものである。じっさい欧米の原発大国(米、仏、独、英)のいずれをみても、原発建設ペースの時間変化は激しい。ところが日本ではあたかも完璧な計画経済が貫徹されているかのごとく、原発の設備要領の「直線的成長」が70年代から90年代半ばまで四半世紀にわたりつづいてきた。
これは日本の原子炉メーカーをはじめとする原子力産業にとってきわめて好都合の仕組みであった。なぜならアメリカとのライセンス契約による貿易規制などのため原発輸出が事実上不可能であった日本メーカーは、もっぱら国内市場の拡大に活路を見出すしかなかったが、国内市場の驚嘆すべき安定成長のおかげで、生産ラインの効率的利用を達成できたからである。
だが二度にわたる石油危機(第一次=1973年、第二次=1979年)をはじめとする経済情勢やエネルギー情勢の70年代以降における激変とほとんど無関係に、原発建設が直線的に進められてきたという事実は、何のために原発建設が進んだのかという疑問を惹起せずにはおかない。原発建設はエネルギー安全保障等の公称上の政策目標にとって不可欠であるから推進されたのえはなく、「原発建設のための原発建設」が、あたかも完璧な社会主義計画経済におけるノルマ達成のごとく、続けられてきたように見受けられるのである。
そうした計画経済をコントロールしてきたのはもちろん通産省である。通産省が1930年代から40年代にかけて商工省のちに軍需省として、産業活動の強力な国家統制をおこなったことはよく知られているが、こうした1940年代に確立された国家統制的な産業活動の秩序は、敗戦後も維持された。むしろ軍部が解体されたことにより、通産省(49年5月までは商工省)は敗戦前よりもさらに独占的な統制権を掌握することとなった。…原子力発電は国家統制事業的性格を濃厚に残したまま今日に至っている。
(pp136-140)

野口悠紀雄が戦中の国家統制体制が戦後も継続していることを指摘しているが、確かに、サブガバメント・モデルについては、戦前・戦中期と戦後期の共通性があるように思える。詳しくは、次の節に書こうと思う。
起源の問題はともかく、サブガバメントが強固に成立してしまうと、外に対してはサブガバメント内の利益が追求されるようになり、内に対しては強力に統制されることになる。電力産業全体もひとつのサブガバメントを構成しているけれど、その中に原子力開発、産業のサブガバメントが成立し、自己増殖的に拡大していく。そして、現在、原子力発電から容易に撤退することができないような、そのような既成事実が作られてしまった。

サブガバメントの弊害

以前のエントリーに書いたが(「昭和と平成、大政翼賛会と大連立」id:yagian:20110609:1307563173)が、現代と昭和初期にはさまざまな側面で共通性があるように見える。そのうちのひとつに、サブガバメントの暴走による弊害がある。
昭和初期、軍部、官僚、政界、財界、労働界を通じ、多数のサブガバメントが形成され、それぞれがそれぞれの利害を追求して暴走し、国家意志を統合することができず、なし崩し的に日中戦争、太平洋戦争に突入し、それを集収することができなかった。
戦後、軍部と財閥を中心としたサブガバメントは解体されたが、新たにサブガバメントが形成された。バブル崩壊までは、経済成長という国家全体の目標は明確だったし、安全保障はアメリカに依存することで、サブガバメントが独自に自らの利益を追求しても、大きな矛盾が顕在化することはなかった。
しかし、今はサブガバメントがコントロールできないことによって、さまざまな矛盾が顕在化した。金融界、郵政事業原子力、農業界などさまざまなサブガバメントが批判されるようになってきた。
しかし、そのようなサブガバメントを解体することはほとんど成功していない。

サブガバメントと政治改革

いわゆる55年体制とは、サブガバメント間の既得権益を調整する体制だった。国会議員たちも、族議員としてサブガバメントの一部を構成するようになった。中選挙区制においては、過半数の得票を得る必要がないから、浮動票よりはサブガバメントに依存して固定票を確実に獲得した方がいい。
菅直人小沢一郎鳩山由紀夫」(id:yagian:20110605:1307218940)をはじめとして、政治改革と小沢一郎の関係に関するエントリーをいくつか書いてきた。詳しくはそれらのエントリーに譲るが、ごく簡単に書くと、小選挙区制を導入し、自民党を割ることによって55年体制を破壊した小沢一郎は、そのことによってサブガバメントを改革するための基礎を作ったと言える。
橋本龍太郎は、サブガバメント間の調整役だった総理大臣の権限とそのスタッフを充実させ、サブガバメントを統御することを目指した。省庁再編を進め、その過程では、サブガバメントを解体するさまざまなアイデアが出されていた。結果としては、サブガバメントを解体する省庁再編は十分に実現しなかった。
そして、小泉純一郎は、小沢一郎橋本龍太郎が創り上げてきた基礎を十二分に活用し、「郵政」という巨大サブガバメントの解体を進めた。小泉純一郎は「自民党をぶっ壊す」と語っていたが、「郵政」というサブガバメントは自民党のなかにも深く食い込んでいたから、それを解体することは、自民党も自ら血を流す事になる。今でも、「郵政」というサブガバメントの族議員を集めた国民新党という政党すら存在する。
小泉純一郎が「郵政」というサブガバメントに対抗できたのは、小選挙区制と総理官邸の機能を十二分に使い尽くすだけではなく、個人的な国民的人気があったからである。
小沢一郎に導かれて政権の座に着いた民主党は、政治主導ということを標榜している。しかし、今のところは、時代遅れになったサブガバメントを解体するという政治主導本来の目的を達成するにはほど遠い状態である。

原子力村」の解体、民主党自民党の解体

小泉純一郎が「郵政」サブガバメントとの対決を演出することによって国民的な支持を調達した。
今なら、「原子力村」を解体することを標榜して国民的な支持を得ることは可能なような気もする。もちろん、「原子力村」との対決は大きなリスクを伴うし、困難な道である。また、民主党にも自民党にも「原子力村」に関わっている人も多いから、小泉純一郎と同様に党内での戦いもある。
現在、衆参ねじれ現象と民主党内の抗争で政治が停滞しており、国民からも見放されている。逆転の発想をすれば、今が大きな改革を打ち出すことによって国民の支持を一気に集めるチャンスとも言える。
望むらくは、近衛文麿ではなく、現実的に改革を実行できる政治家に登場してもらいたいと思う。

原子力の社会史―その日本的展開 (朝日選書)

原子力の社会史―その日本的展開 (朝日選書)