日本語で書くということ、英語で書くということ

稲本がハルバースタムのことを書いていたが(id:info-d:20110625)、確かに、ハルバースタムとかボブ・ウッドワードカポーティの「冷血」を取り上げてもいいかもしれないが、アメリカのジャーナリズムと日本のジャーナリズムには大きな差を感じてしまう。
文化人類学者のクリフォード・ギアツが「厚い記述」という概念を提唱している。人類学者による民族誌は、単に言動、行動を記述するだけではなく、その意味を解釈するための文脈まで踏み込んだ記述をすべきだという主張である。
ハルバースタムやウッドワードの本は、物理的な意味で「厚い」のだが、内容も「厚い記述」になっているのだと思う。おなじ事象に対しても、さまざまな関係者のインタビューを丹念に取り、さまざまな観点から描いている。そのことによって、ある事象をめぐる文脈の全体像を提示しようとしている。
アメリカの日本研究者であるジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」は、戦後日本の全体像を提示するために、資料を広く渉猟して、きわめて多様な視点から日本人と敗戦の関わりを描いている。これもまさに「厚い記述」になっている。
先日、井上寿一「戦前昭和の社会」を読んだ。戦前昭和と現代の世相の共通点がよく指摘される現在において、魅力的な題材だと思う。しかし、残念なことに記述が薄い。新書という制約もあるのだろうけれど、そもそも井上寿一が読んだ資料とジョン・ダワーが読み込んだ資料の量が違いすぎており、そのことが内容に反映されている。
日本の原子力政策について、先日紹介した吉岡斉「原子力の社会史」がほとんど唯一まともな通史だと思う(id:yagian:20110623:1308831551)。原子力政策に賛成であっても、批判的であっても構わないけれど、なにゆえ今のような原子力政策のあり方が成立したのか、その経緯に迫る「厚い記述」をしたジャーナリズムの仕事をぜひ見てみたいと思うけれど、残念ながらそのような作品は見当たらない。
例外は、政治家のオーラルヒストリーを収集している政治学者御厨貴の作品群ぐらいであろうか(id:yagian:20060912:1158068625)。
たしかに、ハルバースタム、ウッドワード、ダワーの作品は文字通り「厚い」。それを読み通すにはある程度の忍耐が必要だし、読み通しても安易なレディメイドの結論が用意されている訳ではない。それを素材として読者に思考することを求めてくる。だから、読者が限定されてしまうということは理解できる。
日本でこのような「厚い記述」のジャーナリズムが成立しないのは、なぜだろうか。ひとつの理由として、政府の要路にある人々に歴史的な記録を残すことを意識してインタビューに応じるという習慣、文化がなく、「厚い記述」の基礎となる取材が難しいということもあるのかも知れない。
例えば、日本戦後の原子力政策の創始者とも言える中曽根康弘に、その成立の経緯、現在までの原子力政策への影響の行使、そして、福島第一発電所の事故に関する評価について、深いインタビューをぜひとも読みたいと思う。しかし、中曽根康弘が日本のジャーナリストにどこまで語るのだろうか疑問である。ぜひ、彼が死ぬ前に、御厨貴にオーラルヒストリーを残して欲しい。
また、先にも書いたように「厚い記述」の本は、読者を選ぶ。英語世界では、読者を選んだとしても十分に商業ベースに乗るだけの販売数が期待できるけれども、日本語の世界では、それだけの読者を得ることが難しいという事情があるかもしれない。
「敗北を抱きしめて」がピュリッツァーを受賞したということを聞くと、日本の戦後社会のあり方に興味を持っている英語の読者の厚みを感じざるを得ない。
水村美苗が「日本語が亡びるとき」で語っているけれども、やはり、英語は、作家も読者も単純に量が多く、それが質に転化しているという側面は否定できないだろう。以前のエントリーでも書いたけれど(id:yagian:20110615:1308099419)、New York Timesを読んでいると、日本の新聞とのクオリティの差は歴然としている。もちろん、アメリカにも大衆紙や地方紙もあり、New York Timesのようなクオリティはない。しかし、アメリカ国内外も含めてNew York Timesを読む読者の数があのクオリティを支えているのだと思う。
御厨貴の作品は、一般読者向けにも出版されているけれど、基本的には研究費でその費用はまかなわれているから、商業的な販売数を考える必要はない。しかし、日本語の世界だけを対象として「厚い記述」をジャーナリズムの世界で実現するのは、読者層の厚みの問題から限界があるかもしれない。
ジョン・ダワーが英語の読者を対象としても成功したように、日本のことをテーマとしても、英語の読者も興味を喚起できると思う。例えば、今回の震災と原子力発電所の事故、日本の原子力政策に関するノンフィクションであれば、英語の読者に対しても販売しうると思う。日本の出版界の状況だけを考えれば成立しない「厚い記述」の作品を、英語圏でも販売も視野に入れることで成立させることはできないだろうか。
私自身は、日本のジャーナリズムや出版界には無知だけれども、日本語の世界だけを対象としている時代は終わりつつあるのではないかと思っている。

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