De la Democratie en Japon(日本のデモクラシー)

アメリカ旅行中にトクヴィル「アメリカのデモクラシー」を読んでいた。実に興味深い本だった。もっと早く読んでおけばよかったとも思ったが、アメリカ旅行中に読むというのもいいタイミングだったかもしれない。
トクヴィルはフランスの政治学者で、「アメリカのデモクラシー」が出版されたのは1835年である。アメリカ合衆国独立宣言(1776)から60年後、フランス革命(1789)から46年、南北戦争(1861)の26年前という時期である。
トクヴィルは、民主制だけではなく、王政も経験している。世界の大勢としては民主制に向かうと予測しつつも、民主制を無批判に支持している訳ではなく、いくつもある体制の一つとして客観的に見ている。現在の政治学者、哲学者にとって、民主制は前提条件となっており、それをその外側から客観的に見ることは難しいことだから、そういう意味では新鮮である。トクヴィル自身は、政府による統治の有効性・効率性という意味では、貴族制を支持しているように見える(明言している訳ではないが)。ただし、政府による統治の有効性・効率性については民主制は一定の限界があるとしても、政府に依存しない国民の自主的な活動を刺激するという意味で民主制の価値を認めている。
今回の旅行ではワシントンD.C.に行ってきた。ヴァチカンは街全体がカソリックの信仰、思想を表現しているけれど、キャピタルヒルはその全体がアメリカのデモクラシーを表現している。アメリカ合衆国の中興の祖であるリンカーン像が丘の上から見守り、中央には独立戦争におけるアメリカ軍の司令官であり初代大統領であるジョージ・ワシントンを記念したワシントン・メモリアルがあり、その向こう側には連邦議会がある。
「アメリカのデモクラシー」を読みながらワシントンD.C.を歩いていると、まだ独立間もない時期のアメリカのデモクラシーの精神が今も息づいていて、アメリカ合衆国という国の骨格となっていることが理解できる。また、そのアメリカのデモクラシーの精神は、アメリカの特殊な条件の下に形成されたもので、その精神なしに制度だけを移植しても機能しないだろうなと思った。トクヴィルは、そのようなアメリカのデモクラシーの優れたところ、特殊なところを十分に認識していて、当然ながらフランスにアメリカの制度を移植すべきだとはまったく考えていない。
トクヴィルはアメリカのデモクラシーの精神について次のように書いている。

…市民の総体に政治権力を認めるように、普遍的理性に道徳的権威を認め、何が許され何が禁じられ、真理と虚偽はどこで分かれるかを識別するのに頼るべきは、万人の感覚であると考える。彼らの多くは、人は自分の利益を正しく認識すれば公正と正直に導かれると考える。誰もが生まれたときから自己統治の能力を授けられ、何人も仲間を強制して幸福に導くことはできないと信じている。誰もが人間の完成可能性を本気で信じ、知識の普及は必然的に有用な結果を生み、無知は有害な帰結をもたらすと判断する。誰もが社会を全体として進歩するものとみなし、人類を一つの動く情景に描き、そこでは何事も永久に停止せず、停止すべきでないと考える。そして今日よいと思うものも明日には、いまはまだ見えない、よりよいものに取って代わられるものかもしれないと認める。
 私はこれらの意見がすべて正しいとは言わないが、それらがアメリカ人の意見なのである。

 この五十年来、合衆国の人民は、自分たちは宗教的で開明的な自由な唯一の国民であると、繰り返し聞かされてきた。彼らは、日本の他のところでは失敗している民主的な諸制度が彼らの国ではこれまで繁栄しているのを見ている。彼らはだから誇大に自己を評価し、自分たちは人類の中でも特別の種を形成していると思いかねない。
(1巻下 pp354-356)

実際、よくもわるくも「それらがアメリカ人の意見」であり、現在のアメリカ合衆国の政治、国家体制も、外交安全保障政策の根はここにあると思う。
連邦議会の見学ツアーに参加すると、最初に議会の概要を紹介する映画を見る。そのテーマが、"E pluribus unum (Out of many, one)"である。自立した個人、タウン、州という多様な存在が、民主主義という理念、連邦議会という制度を通じてアメリカ合衆国という一つの存在に統合されるということが強調されていた。部外者である日本人の私から見れば、「アメリカのデモクラシー」のプロパガンダ映画に見える訳だけれども、アメリカ国民は真剣にそのことを信じているし、それがアメリカ合衆国という国の基盤になっているのは間違いない。
トクヴィルの先見性には驚かされることが多いのだが、当時のアメリカ合衆国は国際的影響力はほとんどなかったけれど、現在のアメリカ合衆国が抱える外交、安全保障上の問題の源である「彼らはだから誇大に自己を評価し、自分たちは人類の中でも特別の種を形成していると思いかねない」という事実を的確に指摘している。
「上滑りの開化」(id:yagian:20110810:1312926462)というエントリーで、夏目漱石の「現代日本の開化は皮相上滑りの開化であると云う事に帰着する」という言葉を引用した。その意味では、アメリカ合衆国の民主主義は上滑りではない。しかし、日本にはアメリカのデモクラシーを支える理念が国民の間に共有されていないから、制度だけを輸入しても上滑りしてしまうだけである。日本なりのデモクラシー"De la Democratie en Japon"を創り上げなければいけない時期になっているのだが、まだ、それは見えない状況にある。
まだまだ書きたいことはあるけれど、十分長くなってしまったので今日はここまでにしようと思う。

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)

漱石文明論集 (岩波文庫)

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