De la Democratie en Japon(日本のデモクラシー)(2) 地方分権とティーパーティー運動

「De la Democratie en Japon(日本のでデモクラシー)」(id:yagian:20110828:1314498545)の続きです。
トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」を読んでいると、奇妙に感じられるアメリカの現象の背景が理解できて腑に落ちることが多い。また、一方で、アメリカの特殊な条件を十分に考慮せずにその制度だけを輸入してもうまく機能しないということも理解できる。
現在、アメリカではティーパーティー運動という草の根保守の勢力が一定の支持を得ている。都市よりは地方に中心があり、反ワシントンの姿勢が強く、政府の機能、財政の縮小を強く主張している。必ずしも富裕層ではなく、どちらかと言えば政府による福祉の利益を得る人も多く、日本から見るとそのような政治勢力が成立する理由がわからず、無知な人々による非合理的な運動のように見えてしまう。
トクヴィルによると、アメリカ合衆国、ことに北部の州では、民主制の基礎はタウンにあるという。

…一つ一つのタウンが独立の国であったとさえ、ほとんど言えるかもしれない。…今日ではニュー・イングランドのタウンは州に服属している。しかし、原理において、かつてはまったく、もしくはほとんどそうでなかった。タウンがその権限を授与されたのではなく、逆にもともともっていた独立性の一部を州に割譲したようなものである。この違いは重要であり、読者はつねにこれを念頭におくべきである。
 一般にタウンが州に服するのは、私が社会的と呼ぶ利害、すなわち他のタウンと共有する利害が問題になるときだけである。
 それ自身にしか関わりのないすべての事柄についてタウンは独立の団体であり、純地域的利害について州政府の介入の権利を認める者は、ニュー・イングランドの住民の中に一人もいないと思う。
(第1巻上pp104-105)

さらに、トクヴィルは、連邦や大統領の権限の弱さを強調し、その分裂の可能性について検討している。もともとイギリスから独立するために各州が協力してアメリカ合衆国を形成したけれども、その必要がなくなり、また、アメリカ合衆国全体への外部からの脅威がなくなるとタウン、州が連邦としてまとまる必要性が低くなるということである。
もちろん、トクヴィルが「アメリカのデモクラシー」を書いた後、実際にアメリカ合衆国は分裂して南北戦争を戦い、再統合されることによって真の意味での国民国家としてのアメリカ合衆国が「建国」される。また、フランクリン・ルーズベルトのニュー・ディール政策によって連邦の関与する範囲が大きく拡大される訳だが、しかし、トクヴィルの指摘はアメリカの民主主義の理念の底流には今でも流れていると思う。
日本では「地方分権」という言葉を使う。これは、明らかに、中央が持っていた権限、権利を地方に分ける、ということを意味している。アメリカの場合は、そもそも権限はタウンにあり、タウンで解決できない問題に関する権限を州へ、さらに州では解決できない問題に関する権限を連邦へ割譲したという理念がある。日本における「地方分権」の議論の源がどこにあるかよく知らないけれど、少なくともアメリカの「地方分権」の制度は、そのそもそもの成り立ちが違っていて日本に適用することは難しいと思う。
民主党の代表選挙において、各候補者が「復興、原子力発電所の事故の収束には国が責任を負う」ということを強調していた。私も軽く違和感を感じたけれど、アメリカ人から見ると不思議な主張に聞こえるだろうと思う。
民主制の国民国家においては、国はすなわち国民を指しているはずだ。国が責任を負うということは、国民全体が責任を負うということである。国民の外に「国」という主体がある訳ではない。しかし、民主党の候補者たちは、あたかも国民の外に「国」という主体があり、その代表者として国民を救済するかのような発言をしている。アメリカの理念、制度が普遍的に優れていると肯定する訳ではないが、少なくとも日本においては、民主制とは何かということの基本的な理解を欠いていると思う。もうすでに忘れてしまっている人も多いと思うけれど、松本龍宮城県知事に対する態度も、このような文脈で考えればよい。
理念は理念として、現実の行政の有効性、効率がアメリカのような体制が優れているかどうかについてはトクヴィルも疑問を呈しているが、ハリケーン・カトリーナへの州と連邦の対応の齟齬などを考えるとさまざまな問題を抱えているのは間違いない。しかし、それでもなおかつ、タウンの自治が基本であり、その権限を州、連邦へ必要な範囲で割譲したという考え方はアメリカ合衆国の理念の基礎にある。
そのように考えると、ティーパーティー運動(その名前もアメリカ合衆国の建国の契機になった事件から取っているが)が現代的な意味で有効かどうかは別として、アメリカ合衆国の基本的な理念に忠実であることが分かる。アメリカ合衆国が建国された後、連邦を重視する「フェデラリスト」と各州の権利を重視する「リパブリカン」の二つの政治勢力に二分される。ティーパーティー運動は、「リパブリカン」の流れを汲んでいるといえるのだろう。
私は、日本における「地方分権」の議論がいまひとつ理解できないと思っている。戦前、都道府県知事は中央政府によって任命されていたが、戦後、各都道府県の選挙によって選ばれるようになった。しかし、中央政府の権限は都道府県の自治の上に成り立っているのではなく、中央政府の権限の一部を都道府県に割譲したというのが実態だと思う。
地方分権」を主張している人は、民主制の理念のレベルでそもそも政府はなるべく小さい単位で自立すべきであると考えているのか、行政の効率性、有効性の観点から中央集権を非効率だと考えているのか、そこがよく見えない。
前者であれば、時には非効率になっても中央政府の権限を縮小すべき、というティーパーティー運動のような主張になるし、後者であればあくまでも行政の最適規模という観点から合理的に組織を再編すべき、という議論になる。
おそらく、日本において前者の立場を真剣に考えている人は少ないと思う。理念抜きに「地方分権」という概念を輸入してしまっているのではないか、漱石のいう「上滑りの開化」なのではないかという疑惑を感じている。

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)

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漱石文明論集 (岩波文庫)

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