日本近代文学の死

世の中の話題の移り変わりは早いから、もう、たいていの人が忘れてしまっているかもしれないけれど、水村美苗日本語が亡びるとき」が賛否両論(賛成という声はほとんど聞かなかったが)を巻き起こしたことがあった。
この本の中で水村美苗が書いているけれど、彼女は、日常の意思疎通に使われる「現地語」としての日本語が亡びると言っているのではなく、かつて「日本近代文学」を生み出した知的言語としての日本語が普遍語としての英語に飲み込まれ、「国民文学」を生み出す言語ではなくなることを「日本語が亡びる」と呼んでいる。
しかし、シニカルに言えば、知的言語としての日本語はまだ滅びていないとしても、「日本近代文学」はすでに滅びて50年は経っていると思う。いまさら「日本語が亡びる」と警鐘を鳴らしたところで、どうにもならない。「日本近代文学」はさまざまな要素がある時代にきわめて偶然重なってできたものであって、再現は不可能だし、水村美苗が書いた小説自体も「日本近代文学」がすでに滅びていることの証だと思う。
日本語が亡びるとき」にも指摘されているように、自らの言葉で文学を書き、それが読まれるという地域は限られている。日本近代文学は、世界のなかで「主要な文学」の一つとして位置づけられているというが、逆に言えば、自立した文学を形成することができた言語はそれだけ少ないということを意味しているのだと思う。
最近、フェイ・阮・クリーマン「大日本帝国クレオール<植民地期台湾の日本語文学>」という本を読んだ。水村美苗の提起する問題を考える上で、実に興味深かった。
日本統治以前の台湾では、日常言語としては台湾語(台湾の日常言語を中国語の方言と見るか、独立した言語として見るかは、沖縄方言を琉球語として見るか、日本語の方言として見るかという問題と似て、政治的な問題と深く関わるため、簡単には決められない。ここでは、クリーマンに従って「台湾語」と呼ぶ。)には表記文字がなかったという。このため、知的言語としては、古典中国語と近代中国の口語を文章化した白話が主として使われていたという。
日本による統治が始まり、日本語教育が試行錯誤しつつ導入され、最終的には皇民化教育が進められることで、台湾に知的言語としては日本語を使う世代が形成されるに至った。
そのような状況下、クリーマンは、台湾に関する「日本文学」を、日本内地の文学者が台湾を訪問することを契機として書かれた文学、台湾育ちの日本人による文学、そして、「台湾人」(この言葉も「台湾語」という言葉と同様の問題を含んでいるが)による文学という三つの観点から分析している。
日本統治時代以後、国民党政権が台湾に確立すると、中国語(マンダリン)が強制されるようになった。このため、基本的に「台湾人」にとっては、「台湾語」が知的言語であったことはなかったし、その意味で「日本近代文学」のような「台湾近代文学」はなかった。もちろん、台湾のナショナリズムの運動のなかで「台湾語」の文学を創ろうという試みはあったようだ。その部分について引用しようと思う。

…作品全体を台湾語で表現するものである。これに分類される作品の中で最も成功を収めたのは、頼和が台湾語の語彙と構文に固執して書いた「一個同志的批信」(同志からの書簡)である。頼はまず古漢語で書き、それを中国語の口語体に訳し、最後に実際の話し言葉に書き換えたと言われている。(p190)

このエピソードから、二葉亭四迷が「浮雲」を書くときに、まずロシア語で書きそれを翻訳したという話を思い起こされた方も多いと思う。
これらのエピソードは、いわゆる日常会話を交わす現地語と文学作品を書くことができる知的言語には大きな差があって、実際には「話すように書く」ということはできない、ということを示していると思う。
「言文一致」というと、あたかも当時の日本語の口語と文章を一致させようとしたような誤解を与えるけれども、本質は、西洋諸国の言葉を翻訳できる文体を作り上げ、知的言語としての「近代日本語」を作り上げるることだったのだと思う。
近代化以前の日本語も、「日本文学」を成立させることができるだけの知的言語であったし、思想を表現することもできた。しかし、日本語と平行して漢文も使われており、より抽象度の高い内容は漢文で書かれていた。
近代化を進める上で、西洋の文化を輸入するために、西洋の言語の翻訳が進められた。しかし、近代化以前の日本語は、西洋の言語を翻訳するためには不十分だった。西洋の言語を翻訳せずに、そのまま輸入するという選択もあり得たし、実際、「近代日本語」が成立する以前の高等教育においては外国語で講義が行われていたという。しかし、日本は、西洋の言語を翻訳できる「近代日本語」を作るという選択をした。
言文一致が翻訳できる文体を作るということは、二葉亭四迷浮雲」(http://goo.gl/4EpyG)と彼によるツルゲーネフの翻訳「あひびき」(http://goo.gl/KDfQD)を比較してみればよくわかると思う。「浮雲」は言文一致で書かれていると言われているけれど、「近代日本語」にはまだまだ距離がある。しかし、「あひびき」ではすでに「近代日本語」がほぼ完成している。
現代の目から見ると、「近代日本語」の導入ということは実に重要な選択だったと思う。「近代日本語」を作らなければ、漢文が知的言語として使われていたように、英語が重要な知的言語となっていたかもしれない。しかし、日本語が「近代化」した代償として、現代の日本人が近代化以前の日本語を読むことが難しくなった。江戸時代の文学すら直接読むことには抵抗があるし、その意味で、日本の文化の連続性に大きな断層ができたことは間違いない。
異論はあるかもしれないけれど、私も水村美苗と同様に、「日本近代文学」がおもしろかったのは、大正時代まで、せいぜい昭和初期までだと思う。極論すれば、背世界的な観点から見た「日本近代文学」とは、漱石鴎外潤一郎の作品を生み出したことが意義の過半なのではないかと思う。
以前、"The Song for All of the Stupid Boys in the Word"(http://goo.gl/CIjr3)というエントリーで、ジャズの死、ロックの死ということについて書いた。
村上春樹が「やがて哀しき外国語」に収録された「誰がジャズを殺したか」というエッセイの中で、ウィントン・マルサリスの世代にとってジャスは研究の対象であり、反抗し乗り越えていく対象ではなくなっており、そのような存在となってしまったジャズは、新しいものを生み出すジャンルとしてはすでに死んでいるのだろうという主旨のことを書いている。
それを踏まえて言えば、私はロックもすでに死んでしまったジャンルだと思う。現在のすぐれたロックミュージシャン(例えばくるり岸田繁)は、過去のロックを研究し、その引用と編集作業をしているように見える。ウィントン・マルサリスが優れたミュージシャンであるとしても、「タバコ(マリワナ?)の煙が充満したジャズクラブ」でのジャズはもはや失われてしまっている。
"Japanese Literature as “Colonial Literature”(http://goo.gl/hnj3B)に書いたけれど、日本は政治的には植民地化されていなかったけれど、「日本近代文学」は、西洋から移入された「小説」という形式を日本語でいかに実現するかという「植民地」的な実験のプロセスだったと思う。その実験の成果が「世界の主要文学」としての「日本近代文学」である。私が漱石鴎外潤一郎で「日本近代文学」は尽きていると思うのは、実験として世界文学に類例のない文学作品を生み出したのはその時期で終わっていると思うからだ。ジャズやロックはこれからも伝承されていくし、ミュージシャンと聴き手は存在し続ける(私も聴き手の一員である)。しかし、新しいものを生み出すジャンルとしてはジャズやロックはすでに死んでいる。これからも日本語で小説は書き続けられ、また、それらは消費されるけれど、「日本近代文学」は死んでいると思う。
そもそも、水村美苗のデビュー作が「續明暗」だったということが象徴的である。この作品には「日本近代文学」の枠を広げる、という実験意識はなく、まさに、ウィンストン・マルサリス的な作品である。自らが「日本近代文学」の死を宣告しているような作品である。
まだまだ書き足りないことが多いけれど、少々(ではなく、ずいぶん)長くなってしまった。今日はここまでにして、続きはいずれ書きたいと思う。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

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大日本帝国のクレオール―植民地期台湾の日本語文学

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浮雲 (岩波文庫)

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やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

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続 明暗 (ちくま文庫)

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