空気を読むより直接聞いてみろ

「空気を読む」をテーマに、ウェブログ("Reading the Air" http://goo.gl/Tuwkq 「浮遊感」id:yagian:20111010:1318222287 )に書いたり、ツイートしたり(「漢字、読めるけど、空気、よ・め・な・い。」 http://goo.gl/kOF17)したら、(自分の書いたもののなかでは)けっこう反響があった。「空気を読む」ということを切実な問題として抱えている人が多いんだろうなと思った。
英語のウェブログの方には、「空気を読む」ということは別に日本に限ったことじゃなくて"to read between the lines", "to read the situation", "to feel the mood"とか言うよ、というコメントをもらった。語られない「空気」を察知するという行為はもちろんどんな社会でもあるのだろうけれど、「空気」という言葉には集団が暗黙のうちに同調を強制するというニュアンスがあって、英語での表現にどこまで同じようなニュアンスがあるのかよくわからなかった。自分の英語力の制約で、そこまで突っ込んだ話ができなかった。
日本語のウェブログの方では、自分は空気を読まないようにしているし、その結果もあるけれど、いつも周囲から浮いている(浮遊感がある)けれど、それはそれで日本社会でサバイブできている、というようなことを書いた。
ツイートでは、空気なんか読むなよ、ということを少々アジってみた。
「空気を読む」ということの問題は、「空気を読む」という行為は周囲の考え、感情を自分だけで想像しているから、結局のところ完璧に「空気が読めた」という確信が得られないし、いつも疑心暗鬼で不安を感じなければらないということ、それと上にも書いたけれど暗黙のうちの同調圧力があるということだと思う。
そもそも完璧に「空気を読む」ということができないのであれば、逆転の発想で、シンプルに直接聞いみればいいじゃん、と思っている。自分で想像を逞しくしてあれこれ悩んでいたけれど、直接聞いてみたら思いのほか、問題があっさり解決してしまったということが多い。その上、「空気を読んでいた」ときにはもやもやとした関係だったのが、一回腹を割って話しあってみたら信頼関係ができるということもある。
それができれば苦労はしない、と言われてしまいそうだけれども、もちろん、簡単に直接腹を割って話し合えるようになる訳ではない。コミュニケーションに対してそれ相応の努力をすることやある程度のテクニックは必要だと思う。
まず、この人は裏表がなく身も蓋もなく思っていることをそのまま言う、また、逆にこの人には何を言っても深読みをしない、また、言ったことは何でもバカにせずに受け入れ揚げ足を取ったりしないということを理解してもらう必要がある。そうなるためには、文字通りそのとおりのことをしつこく実行しつづけるしかない。
当然ながら「空気が読めない」とか「うざい」とか思われることもあるだろうと思う。しかし、それは気にしない。別に、「空気が読めない」とか「うざい」と思われてもどうということはない。私も日本人なので、好んで「空気が読めない」とか「うざい」とか思われている訳ではないけれど、そこは「空気」の同調圧力をはねのける必要がある。
すべての人、とはいかないけれど、ああ、こいつはそういう奴なんだ、と思ってもらえるようになる人がいる。そういう人とは、気になることは本音で率直に話し合えるようになって、けっこう深い信頼関係をつくることができる。「空気」を読み合っていても、こういう信頼関係は作れない。
「空気を読まない」と世の中から浮く。しかし、数は少ないけれど濃い信頼関係を築くことができるし、日本社会の中でもサバイブはできる。私にとっては後者の方が心地よい。