効率と教養

「ちきりんの日記」にアップロードされた「インプットか、それともアウトプットか」(http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20111030)を読み、感想を書いてみたいと思った。

つまらなく、平凡な結論だけど、インプットもアウトプットも必要で、出口社長の方法もちきりんさんの方法も場面によって使い分けるべき、ということに尽きてしまうと思う。

目標が明確な時には、ちきりんさんの方法が有効で、自分もそうしている。仕事で日常的に遭遇する課題の多くはそのたぐいで、「仕事」では、それらをいかに効率的に解決していくかが重要である。そのためには、仮説を立て、その仮説を検証するための情報(インプット)を効率的に収集し、解決策を立案して、実行する。そのプロセスでは、いわゆる「マッキンゼー流」のロジカル・シンキングは便利なツールだし、実際にロジックツリーをよく作っている。

「ちきりんの日記」のなかで、アウトプットという言葉を、「成果」と「情報発信」という意味をあえて混ぜて使っていると思うけれど、「情報発信」という意味でのアウトプットは思考を深める上で不可欠だと思う。

他人に説明することでフィードバックを受けるということももちろん重要だし、自分の考えを他人に説明するというプロセス自体で、自分の考えを整理して、客観的に見ることができる。先日、社内の研修で講師をしたけれど、結局、いちばん勉強になったのは受講者ではなく、講師である私自身だったと思う。受動的に研修を受けるというインプットのプロセスより、研修の準備をし、講師をするというアウトプットのプロセスの方がはるかに深く思考をする。

一方、そもそも何を目標として良いかすらわからないとき、また、課題解決やこれまでの延長線上にないまったく新しいことを始めようとするときには、出口社長のいうような、アウトプットから逆算して効率よく収集されたインプットではなく、厚みのあるインプット、ある種の「教養」が重要になるのだと思う。

出口社長も、日常の業務では仮説とその検証というプロセスを繰り返していて、そこでは効率の良いインプットの収集をしているのだと思う。優れたビジネスマンであれば必ずそうしているはずだ。しかし、長期的に大きな仕事をするには、その繰り返しだけでは不十分だということを指摘しているのだと思う。

ちきりんさんは、外資系企業では短期的な成果を求められるから「教養」的なインプットをする余裕が無いということを書かれているけれど、外資系企業のトップの人であればあるほど、一見仕事に直結するようには見えない深い「教養」を持っているように思う。実学志向が強いアメリカの大学にあっても、ハーバードのような大学ではリベラルアーツに力を入れているようだし、どこかで「教養」的なインプットをしているのだと思う。

村上春樹が、早稲田大学文学部に入学するにあたって、「自分はほとんど受験勉強をしなかったと言ったら、その私の言葉に反発した人がいたけれど、事実、受験勉強をしていなかったのだからしかたないじゃないか」という意味のことをどこかで書いていた。

私は村上春樹のいうことがよくわかる。当時の早稲田大学文学部の受験科目がどうだったのかよく知らないけれど、国語、英語、社会の三教科ぐらいだったのだろうか。国語は、あの村上春樹だし、本を読みふけっていたのだから特に受験勉強の必要はない。英語は、高校時代にペーパーバックで小説を、これもまた読みふけっていたというのだから、大学受験程度の英語はあらためて受験勉強する必要がない。また、彼は、中央公論からでていた分厚い日本史と世界史のシリーズものを繰り返して読み込んでいたというから、歴史だって改めて受験勉強する必要がないだろう。たしかに、早稲田大学文学部に「特に」受験勉強せずに合格したというのも不思議ではないと思う。

かくいう私も、反発されそうだけれども、某有名大学に、それほど受験勉強をしないで合格した。その大学の入学試験は、重箱の隅をつつくような知識よりは基本的な体系の理解と思考力を問う骨太な問題が出題されていたから、小手先の受験テクニックがあまり有効じゃなかったと思う。また、私の時代は共通一次と呼ばれていたいわゆるセンター試験があったけれども、まあ、大学に入って勉強しようというのだから、あのくらいの教養はあってもいいんじゃないの、というレベルだと思う。

村上春樹のように、別に受験に役立てるつもりもなく、単に楽しみのために本を濫読して、なんとなく身についた「教養」のようなもの(後述するけれど、大学に入って「大先生」と出会ってほんとうの「教養」とはぜんぜん違うものだということはわかった)で、合格できたように思う。

一方、通常の受験勉強は、試験に合格するというアウトプットのためにいかに効率的にインプットするか、ということだから、まさにちきりんさん流ということなのだろう。

結果が良ければどちらがいい、悪いということはないけれど、血の汗を流して受験勉強をするのって、あまり楽しそうじゃないし、大変そうだなと思ったりもする。村上春樹や私が中学高校時代にいろんな本を濫読していたのは、別に将来何かのためになると思っていたわけではなく、単純におもしろかったからだけれども、長い目で見ると結果的に役に立つこともある、ということはなかなか興味深い事実である。

受験勉強で得た知識も、もちろん、試験に合格するという以外にも役に立つことはあるだろうけれど、あまりにも受験勉強に目的を絞った勉強は、汎用性に欠けるようにも思う。もちろん、無目的に本を読んで得た知識が、すべて有益な結果をもたらしてくれるという訳ではない。私の頭のなかの大部分は無用な知識の集積だけれど、好きでそうなった訳だし、まれにはそれが自分を助けてくれることで十分満足している。

冒頭に、マッキンゼー流のロジカル・シンキングのテクニックは使うし、なかなか便利なツールだと書いた。たしかに便利だけれども、そうやって生み出されるものは、結局のところ大したことがない、たかが知れたもののようにも思う。

目的、目標を設定して、最短コースを走ると、目的、目標のところまでしか行けない。受験のために最適化された勉強方法は、試験の合格にしか役に立たない。会社に雇われて仕事をするという立場であれば、それさえできれば合格点なのかもしれないけれど、正直に言って浅薄な感じがする。

私は、自分の出身大学はいい大学だと思うし、いい経験がいろいろできたと思う。そのなかの一つは、「知の巨人」としかいいようがない「大先生」を真近で見ることができた、ということがある。

目標を設定して最短コースで結論に至る、ということとはまったく無縁で、私ごときにはなにの役に立つのかわからないような深い教養を身につけた人にしかできない厚みや深みのあるアウトプットが存在する、ということを実感として経験できた。経済的、社会的、知的な余裕がなければそういう人になることはできないのだろうけれど、世の中にはそんな人もいるということを知ることができたのは大きな財産になっている。

最近、日本の大学もアメリカの大学のように、短期的な成果を求められるようになってそのような「大先生」が生まれにくいという指摘がある。事実かもしれない。しかし、ジョン・ロールズやジョン・ダワーの著作を読んでいると、アメリカの大学でもきちんと「大先生」が存在しているということがわかる。

もちろん、アウトプットから逆算するという方法は大いに有用で、別段「知の巨人」を目指している訳ではない私にとっては日常生活をつつがなく過ごすためにはそれで十分だけれども、「知の楽しみ」はそういうところにはないな、とも思ったりもする。