ラディカルな会議

「ラディカル(radical)」という言葉は、「過激」という意味に使われることが多いけれども、もともとの意味は「根源的」という意味だという。
「過激」を気取っている人には嫌悪感を感じるけれど、ものごとを「根源的」に考えるあまりに意図せず「過激」になってしまう人は大好きである。
前の日記「市場という海に浮かぶ企業という島と市場メカニズムを使ったプロジェクトマネジメントに関する試案」(id:yagian:20111224:1324686249)で、コースのことを取り上げたけれど、彼も「根源的」に考えるあまりに「過激」になってしまう人だと思う。彼は典型的な経済学者で、功利主義の観点からいろいろなものごとを「根源的」に考え、はからずも「過激」な結論にたどり着いてしまう。
ほんとうの意味での「ラディカル」さということは、右翼や左翼ということには関係がない。マルクスはラディカルだけれども、彼の考えを教条的に信じている人たちは「ラディカル」ではない。保守派の人でも「ラディカル」であろうとすると、「過激さ」にたどり着いてしまうこともある。
ややおおげさなことから書き始めてしまったけれど、今日書こうと思っていることはもう少し身近なことである。
10月にグループリーダーの仕事を引き継いだ時、毎週月曜日に定例でやっていたグループ会議のやり方について疑問に思っていた。ある組織の定例の会議というのはたいていそういうものかもしれないけれど、まずはリーダーが連絡事項を読み上げ、そのあと、それぞれのメンバーが先週した仕事と今週の予定を淡々と報告する。たまにリーダーがメンバーに質問することもある。
まず最初に考えたのは、グループ会議をやめてしまおうか、ということだった。連絡事項だったらメールで情報を流せばいいし、仕事の進捗状況は日々のコミュニケーションで把握していたし、今週の予定だったらスケジューラーを見ればいい。わざわざ時間を割いてメンバー全員を集める必要があるのだろうか。
今度は逆に会議はなんのためにやるのか「ラディカル」に考えてみることにした。答えは簡単である。会議に参加したメンバー相互のコミュニケーションが必要なことを達成することである。単なる連絡事項の通達や報告だったらメンバー相互間のコミュニケーションは必要ないし、生じない。
そこで、グループ会議をメンバーそれぞれが抱えている課題や問題をメンバー全員の知恵を集めて解決する場にすることにした。
まず、個人単位で先週の業務と今週の結果を報告させるのではなく、業務単位で報告してもらうことにした。そうするだけで、コミュニケーションが活性化した。また、単なる事実の報告だけではなく、なるべく自分が抱える課題、問題を報告し、それに対して自分が担当していない仕事についても解決策を提案するように徹底した。そうして、やっと「ラディカル」な意味での会議として機能するようになった。
また、会議の終わりに、「今週のひとこと」というコーナーを作って、持ち回りで5分ほど自由に話をしてもらうようにした。ポイントは、全員が対等なこと。私も持ち回りのメンバーの一人だし、派遣スタッフも私と同じように話してもらう。そうすると、この人はそんなことを考えていたんだ、と新鮮な発見があるし、話も結構盛り上がったりする。
しかし、「ラディカル」な会議がかんたんにうまくいく訳ではない。グループ会議に限らず、グループの仕事のやり方を徹底してチームワークにし、相互のコミュニケーションを深めることを徹底していたから、グループのメンバーも私の意図を理解してもらえたのだと思う。そうでなければ、うまくいかなかったと思う。
実は、グループリーダーの会議も、かつてのグループ会議とまったく同じように運営されていて、ラディカルな意味での会議の体をなしていない。私の上司に、相互のコミュニケーションができるように会議のやり方を変えたらどうかと提案してみた。私の上司は理解してくれて、グループリーダーの会議で提案してくれたけれども、他のグループリーダーはぽかんとしていた。彼らは、定例会議というのはこういうものだという先入観があって、違う形の会議のあり方など想像外なのだと思う。
時間はかかると思うけれど、ラディカルな会議を浸透させていこうと思う。