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パターン認識、校正、速読術、音読と黙読、ロゴス中心主義、声に出す日本語、黙読における文章のリズム、漢字の認識の限界とは

今日もfacebookの知り合いから教えてもらったネタ。
とりあえず、この画像を見て、枠内の文章を読んでいただきたい。
http://ameblo.jp/hugjapan/image-11137684798-11738727368.html
どうだったろうか。
私の場合、最初に読んだ時には、単語がアナグラムになっていることにはまったく気が付かず、ごく普通の文章として読んだ。注記を読み、もう一度読みなおしてみて、ようやくアナグラムになっていることに気が付き、かなり驚いた。
以下のウェブサイトで、この画像のネタ元が紹介されている。
http://www.kotono8.com/2009/05/10yometeshimau.html
確かに、サイエンスとしての研究としてみた場合には、かなりあぶなっかしい感じだし、疑似科学的なギミックという雰囲気も漂っている。
自分で同じような文章を作ってみて気がついたのだが、先頭と最後の文字を固定するとアナグラムのバリエーションがかなり制限されてしまう。例えば、「ありがとう」を例にすると、以下の5パターンになる。

  • ありとがう
  • あがりとう
  • あがとりう
  • あとりがう
  • あとがりう

おそらく、単語を認知する上で、先頭と最後の文字が固定されていることが必須の条件ではなく、アナグラムのバリエーションが制限されるという効果の方が大きいような気がし、少々胡散臭い雰囲気が感じられる。また、ネタ元を紹介しているウェブにも書かれているように、この現象の説明のために脳の機能と結びつける必要はないようにも思える。
しかし、最初に読んだ時、単に読めたというだけではなく、アナグラムになっていたことにすら気が付かなかったということは、私自身にとってなかなかショッキングな体験だった。
かんたんに言えば、表音文字で書かれていても、音声を脳内で再生しているのではなく、画像としての文字列をパターン認識しているということなのだろう。一定程度アナグラム化されても「ありがとう」という言葉と結びつけて理解できる(されてしまう)。ネタ元紹介のウェブでも指摘されているが、当然、あまり目にしない複雑で長い単語であれば、パターン認識されず、一文字一文字たどって理解する必要があるのだろう。
職業上、資料を作って説明、プレゼンテーションする機会が多いが、実際に会議で説明する段階になって誤字脱字に気がつくということがよくある。一応、事前に校正はしているのであるが。最近では、自分で十分な校正をすることは無理だと諦め、校正は極力別の人に頼むようにしている。これも、まさしくこの「アナグラム効果」で説明できるだろう。
校正している段階では、文字列を目で追っているからパターン認識してしまい、誤字脱字に気が付かない。一方、説明する時は、文章を読み上げるため、一文字一文字追いかけることになり、誤字脱字に気がつく。めんどうだけれども、朗読することは校正する上で有効な方法なのだと思う。また、専門的な校正者は、なるべくパターン認識をしないように、頭の中でスイッチを切り替えるような作業をしているのだろうか。ちょっと聞いてみたい気がする。
アナグラム効果」のもととなった英語バージョンでは、単語がわかち書きされているから、その単位でアナグラム化されている。日本語は、もともとはわかち書きされていないが、アナグラム化された文章はかな文字、わかち書きの上でアナグラム化されている。もし、一文すべてが連続しており、その単位でアナグラム化されていたらどうなるだろうか。英語の場合はおそらく単語レベルでのパターン認識があるのだろうけれど、日本語の場合はどの単位でパターン認識されているのかやや興味がある。前述のように、ネタ元を紹介したウェブサイトでは、きわめて長い単語をアナグラム化した場合にはパターン認識しないだろうと書いている。どこまでがパターン認識の限界なのだろうか。
また、ネタ元を紹介したウェブサイトでは、英語の研究においては、単語の順番を入れ替えた文章の例も挙げられている。もしこれが正しいとすれば、単語レベル(音の集合体)でのパターン認識とともに、文章レベル(単語の集合体)でのパターン認識も二重に行われていることになる。これも実体験を踏まえれば、ある程度はありうる事象だと思う。
一回に表示される映画の字幕の文章は、端から読まなくても一目で理解できる量に制限されているという話しを聞いたことがある(どこまで本当かわからないけれど)。これは、ごく普通の人でも、短文であればパターン認識をしているという特性を利用していることになる。また、いわゆる速読術というのは、このパターン認識を本のページ単位までに拡大したものと考えればよいだろう。
私自身は、速読術のトレーニングを受けたことはないけれど、新書程度の内容の本を日本語でナナメ読みをするときは、おそらく段落単位ぐらいでパターン認識をしているような気がする。あくまでも無意識でやっていることだから正確にはわからない。その意味では、私がパターン認識できる分量で段落が区切られた文章は、ナナメ読みしやすいのだと思う。また、最近、iPhoneで豊平文庫というアプリで青空文庫を読んでいるが、文字の大きさの設定によって、ちょうど一ページ分をパターン認識できる文章量になり、パタパタとめくっていくことができてなかなか快適である。
最近すっかり記憶力が衰えてしまって正確な出典を示すことができないが、前田愛「近代読者の成立」のなかだったかと思うが、前近代の読者は音読をするのが普通で、黙読という習慣ができたのは明治以降であり、前田愛も口をもぐもぐと動かしながら新聞を読む習慣がある老人を見たことがあると書いていた記憶がある。確かに、江戸時代の教育のイメージは論語素読である。また、江戸時代の娯楽向けの出版物は、一人で読むよりは、文字が読める人が音読するのを、絵を見ながら集団で楽しむことを想定されていたという。想像するしかないけれど、その時代には同じようなパターン認識があったのだろうか。
また、デリダが西洋哲学の「ロゴス中心主義」を批判しているが、井筒俊彦イスラーム哲学に関する本を読んでいると、イスラーム世界には盲目の碩学神学者が登場してくる。イスラームでは、話し言葉の優位が徹底しており、クアルーンも朗唱するのが「正」であって、編纂された本としてのクアルーンが「正」という訳ではない。基本的に神やムハンマドの言葉は口承で伝承されるものとされているから、盲目であることが神学者にとって不利な条件にはならないという。
齋藤孝が「声に出して読みたい日本語」を書いたのは、日本語の歴史の文脈では前近代への先祖帰りということになる。近代の日本語でも、音読を前提として書かれた文章も存在するから「声に出して読む」ことが意味のないことではないけれど、前近代の日本語とは違って、近代の日本語の多くは黙読を前提として書かれているのは間違いない。
村上春樹は、さまざまなところで、文章のリズムの重要性について語っているが、それは、音読をしたときのリズムではないとはっきり言っている。黙読される文章においてもリズムがあり、それが物語をドライブさせる重要な役割と果たしているという。先に、私は黙読としているときにパターン認識をしていて、私のパターン認識の単位と、段落の単位、ページの単位が合致するとナナメ読みをしやすくなるということを書いた。もしかしたら、村上春樹のいう文章のリズムは、このような塊としての文章のパターン認識と関わりがあるのかもしれない。
村上春樹の文章のリズムが視覚的効果の結果だとすると、彼の小説は文庫本になるまえに、オリジナルの単行本で読むべきなのかもしれない。また、iPhoneの豊平文庫のように、文字の大きさ、一ページの文章量を読者が自由に選択できるようになると、文章のリズム(少なくとも、読者にとって読み進めるリズム)を読者がコントロールできるということになったのかもしれない。
漢字はそもそも表意文字という意味ではパターン認識されている。考えてみれば、同じ文字といいながらも、様々なフォントがあり、手書きの文字に至っては厳密な意味での相似形の文字は存在しないにも関わらず、特定の漢字だと認識しうるというのは不思議なことである。もちろん、漢字のパターン認識も限界があり、私は悪筆だから、私の文字に慣れていない人は私の手書きの文字が読めないということはよくあるし、さらに言えば、自分ですらも読めなくなってしまうこともある。一方で、私の文字に慣れると、今まで読めなかった文字が読めるようになることもある。つまり、パターン認識の識別力が向上する、というか、私の悪筆に適合した形でのパターン認識ができるようになる。

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