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言語習得のプロセスについて考えてみた

しばらく前に書いた記事「パターン認識、校正、速読術、音読と黙読、ロゴス中心主義、声に出す日本語、黙読における文章のリズム、漢字の認識の限界とは」(id:yagian:20120119:1326972915)とそれについたコメントの続編なので、一応、目を通してもらえるとうれしいけれど、この記事だけでも独立して読めるように書こうと思う。
これから少々偉そうなことをあれこれ書いていくわけだけれども、基本的には素人の与太話なのであまり真に受けないように(なんていう前置きをしたら誰も読まなくなるかな)。
哲学の大きな議論に「実在論」と「唯名論」の対立がある。ごく簡単にまとめると、「実在論」はそれぞれの事象に本質が「実在」すると考え、「唯名論」は本質が実在する訳ではなく、唯だ人間が名づけているだけだと考える。
例えば、「赤」という色がある。「実在論」では、「赤」という色には、それが他ならぬ「赤色」たらしめている本質があって、それゆえ人間はその色を「赤」だと認識できると考える。「唯名論」では「赤」という色には「赤」という本質がある訳ではなく、たまたまある種の色を人間が「赤」と呼んでいるだけだと考える。
現実の世界に対して「実在論」と「唯名論」のどちらが妥当するのかはよくわからないけれど、大学時代に文化人類学を専攻して構造主義を多少かじった経験がある自分にとっては「唯名論」がしっくりくる。
ソシュールは、言語は「差異の体系」だと指摘している。先ほどの色の例で言えば、「赤」という言葉が意味を持つのは「赤」という色の本質を表現しているわけではなく、「赤」という言葉が意味を持つのは他の様々な色「緑」「黄」などとの関係性によるという。
もう少し具体的に言えば、もし色について「赤」「緑」「黄」の三つの語彙しかない言葉があったとすると、「赤」という言葉が指す色は「緑」でも「黄」でもない、としか定義できない。同様に、「緑」という色は「赤」でも「黄」でもなく、「黄」は「赤」でも「緑」でもない色としか定義されない。つまり、「赤」という言葉が単独で意味を持つのではなく、「赤」「緑」「黄」の三つの相違する色に関する語彙がセットとなって意味を持つ。これが「差異の体系」の意味である。ソシュールは「赤」という色の本質を認めないから「唯名論」的である。
また、ソシュールは言語の体系的な側面をラングと、個別的な発話をパロールと呼んでいる。確かに、ラングとしての言語が「差異の体系」であるということは納得できるような気もするけれど、個々人が言語を習得をするプロセスを考えると少々不思議にも思う。
ソシュールによれば、例えば「赤」のような語が意味を持つのは、ラングの体系に位置づけられているからだ、ということになる。しかし、幼児が言語を習得するときには、段階的に語彙が増えていくから、一挙にある言語の体系の全体を習得する訳ではない。また、ある言語を用いる人の個々人を見てみれば、習得している語彙が異なっているから、抽象的にラングの体系を想定することはできるけれど、実際には普遍的なラングの体系というものを習得している人は誰もいない。
ここからは私の想像だが、個々人は自分の持っている語彙の体系によって世界をとりあえず認識している。その体系は柔軟、動的なもので、つねに新しい語彙が追加されて新体系が再編成され続けているのだろう。ある程度成長するとそれなりにその体系が安定するが、幼児期にまさに言語を習得している時期は、語彙の体系はかなり動的に変化しているはずだ。だから、言語の習得に伴って世界の認識も日々変化している。
例えば、幼児が「アカ」という単語を習得する。その瞬間には、色に関する語彙は「アカ」しかないから、ものの表面はすべて「アカ」だと認識する。次に「ミドリ」という語を習得すると、ものの表面を「アカ」と「ミドリ」の二つに分類する。この時、将来「キ」として分類されるであろう色については、認識されない。「アカ」のなかにはいっているかもしれないし、「ミドリ」のなかにはいっているかもしれないし、両方に含まれているかもしれない。ともかく、世界のものの表面は「アカ」と「ミドリ」に分類される。幼児は語彙を増やすたびに世界をより細かく分節できる体系を手に入れる。
ヘレン・ケラーの"water"のエピソードは創作だという話も聞くが、もしあれがほんとうであれば、すべての事象に名前が付いているということに気がついたということではなく、すべての事象が分類しうるということに気がついたということなのだと思う。
さて、私自身、最近英語(http://yagian.blogspot.com/)と中国語(http://blog.sina.com.cn/u/2559889015)の学習にはまっているけれど、第二言語学習者にとって、この体系の問題はどのような意味を持っているだろうか。
第二言語学習者は、母語による語彙の体系を持っていて、それによって世界を分節、認識している。だから、一から語彙の体系を習得する幼児とは違い、異なる言語の語彙を習得する時、まずはその語が自分の母語の体系のなかでどのように位置付いているか知ろうとするだろう。
"red"という語彙を習得した時、幼児のようにすべての色を"red"と認識するのではなく、"red"という語彙を「赤」と結びつけて理解する。そのように翻訳的に語彙を増やしていく。
しかし、ソシュールが言うように、本来"red"という語の意味は、英語の語彙の「差異の体系」のなかに位置づけられている。"red"の意味が類推的に「赤」に近いということは言えても、本質的には"red"と「赤」は異なる。だから、ある程度第二言語の習得が進むと、母語の語彙の体系と第二言語の語彙の体系のズレに気がつくようになる。
よく第二言語の習得で、その言葉で考えるように(例えば「英語で考えるように」)、と言われることがある。確かに、その感覚は経験的に理解はできる。英語を聞いたり、話したり、書いたり、読んだりするとき、確かに翻訳的に理解するのではなく、直接英語だけの世界に閉じている、ということが実感できる瞬間がある。
あるまとまった量の英語を聞き、読んでいると、ある瞬間に「英語で考えるように」なって飛躍する瞬間がある。あれは、自分の母国語のラングの体系と結びつけて第二言語を類推的に理解するのではなく、第二言語のラングの体系が自分のなかに成立したということではないだろうか。いわば、第二言語としての"water"の認識の瞬間が訪れたということである。