木村政彦はなぜ力道山に敗れたのか

増田俊也木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」読了。701ページ、二段組の大作である(これで2,600円という価格はあまりにも安いと思う)。丹念な取材でこれまで「通説」とされてきた事実を覆す力作で、非常に興味深かった。しかし、一方で、読み進むうちに寂しい気持ちになっていった。
戦前、戦中派にとって木村政彦は、黎明期の日本プロレス界における力道山のタッグパートナーとして記憶されている。私も、最初の彼のことを知ったのは、プロレスラーとしての木村政彦である。力道山が自らの団体を起こし、アメリカからシャープ兄弟を招聘してプロレスが大ブームとなった。木村政彦は負け役を演じさせられたのを不服として力道山に挑戦し、当時珍しかった日本人同士のビッグマッチとして話題を集めた。その試合で、力道山が「ブック破り」(八百長の約束を破り真剣勝負を挑む)をして、木村政彦が一方的に殴打される凄惨な結果となった。その後、木村政彦は世から姿を消し、力道山はスーパースターとなる。
一方、UFCの黎明期にグレイシー柔術が連戦連勝していた時代、そのグレイシー柔術に関わる二人の柔道家が再評価されることになった。一人はグレイシー一族に柔道・柔術を教えた前田光世コンデ・コマ)と、ヒクソン・グレイシーホイス・グレイシーの父で、ブラジルで他流試合を重ねていたエリオ・グレイシーを腕鹹みで破った木村政彦である。この木村政彦エリオ・グレイシーの試合以来、グレイシー柔術では腕鹹みを"Kimura"と呼び、現在の総合格闘技界でもそう呼ばれている。
増田俊也は、北海道大学柔道部出身のジャーナリストだが、世間からは力道山に敗れた一プロレスラーとして忘れされれ、また、プロレスラーになることで講道館を中心とした柔道界から排斥された木村政彦の名誉回復をするためにこの本を書いた。
増田は大きく三つのテーマをもってこの本を書いている。一つ目は、力道山を中心としたプロレス界の「歴史」の真実を明らかにすること。二つ目は、講道館を中心とした柔道界の「歴史」の真実を明らかにすること。三つ目は、木村政彦の強さを明らかにし、なぜそれほど強かった木村政彦が「プロレスラー」の力道山に敗れたのかを明らかにすることである。その意味で、この本の題名は「木村政彦はなぜ力道山に敗れたのか」がふさわしいと思う。
増田がそれほどまでに木村政彦にこだわる理由を知るには、彼の「北海道大学柔道部」という出自について理解する必要がある。グレイシー柔術が寝技を中心として他流試合を制していた頃、「高専柔道」という存在に注目が集まった。増田は北海道大学柔道部で、「高専柔道」の流れを汲む「七帝戦」と呼ばれる現在の国際柔道、講道館柔道と異なるルールの柔道をしていた。
高専柔道」は、戦前、旧制高等学校大学予科旧制専門学校の間で行われていた対抗戦である。十五人の勝ち抜き戦で行われ、判定による決着や寝技の時間制限がなく、引き込み(寝た体勢から寝技に引きこむ)が認められていた。学校間の団体戦であるため、経験が浅い選手が相手校のエースに対して引き分けに持ち込むことが大きなポイントなった。その場合、経験の浅い選手は引き込みによって徹底して寝技に持ち込むことで粘るという戦術を取る。その結果、寝技の開発が進み、やはり寝技を中心としたグレイシー柔術と共通する技術を持つようになった。増田の北海道大学柔道部の後輩である中井祐樹は、ヒクソン・グレイシーと試合をしたこともあり、日本でのグレイシー柔術の第一人者となっている。
増田がこの本で示しているのは、戦前においては「柔道」が「講道館」に独占されていた訳ではなく、現在の柔道の歴史は「講道館」の視点から書き換えられている、ということである。戦後、GHQが「武道」を禁止するなかで、大きな勢力を持っていた武徳会、高専柔道が事実上消滅し、柔道のスポーツ化を主張した講道館が柔道の中心となった。増田は、より多様性がありさまざまな可能性があった戦前の柔道が、スポーツ化によって限られたものになってしまったと考えているようである。特に、実戦を想定しているべき「武道」としての側面が失われることで、皮肉にも総合格闘技に対応できなくなったことを指摘している。
一方、戦前に全盛期を迎えていた木村政彦は、武徳会、高専柔道、さらには、当身などもある古流柔術、ボクシングなどさまざまな格闘技を取り入れて、実戦としての柔道を想定していた。それがエリオ・グレイシー戦に結びついていく。
また、プロレスの歴史も、力道山ジャイアント馬場アントニオ猪木という流れで整理されているけれども、その黎明期はもっと混沌としたもので、木村政彦自身が力道山よりも先にアメリカでプロレスをしていたこと、また、日本初のプロレスの興行も力道山より先に柔道家の山口利夫や木村政彦が行なっていたこと、力道山がプロレス界を統一する前にはさまざまな勢力が角逐していた時代があったことを明らかにしている。
柔道家してのキャリアは徴兵によって中断されてしまうが、戦前の木村政彦の戦歴は圧倒的だったようだ。木村政彦の試合の映像としては、上述のエリオ・グレイシー戦のものが残されている。エリオ戦は戦後、全盛期からすぎており、その当時のような節制、練習をしていなかった時代である。たしかに、エリオとは体格差があるが、ホイス・グレイシー同様にエリオも下からの寝技で相手をコントロールするタイプだったようだ。試合冒頭、木村政彦が得意の大外刈りでエリオを倒す。すばらしいスピードだが、立ち技で木村がエリオを圧倒するのはある意味当然である。その後、あっという間にパスガード(下になったエリオの足での防御を超えること)をして抑えこんでしまう。

ホイス・グレイシーの試合を十分研究して試合に臨んだ吉田秀彦もホイスの下からの粘りに苦労している。最後の袖車もホイスが失神した訳ではなく、禍根を残した。また、吉田とホイスの再戦では、同義を脱いだホイスに対し、吉田は最後まで下からの寝技でコントロールされて続けている。ホイスとエリオの実力の比較は難しいが、たしかに木村政彦がエリオを子供扱いしていた試合内容とは差があるし、また、グレイシー一族の木村政彦への評価の高さがその実力を裏付けていると思う。



しかし、戦後の木村政彦は基本的には武道家でもアスリートでもなかったのだろう。少なくともプロレスラーになってからは。実際に、厳しい精進をしていた戦前の生活とはまったく違っていたようだし、筋書きがあるプロレスという仕事を受け入れていたのは間違いない。
力道山戦のビデオを見ると(増田によると、力道山にとって都合の悪い部分は編集によってカットされているらしい)、前半は明らかにプロレスである。そして、力道山がテンプルへ打ち込んだ手刀でダメージを受け、その後の顔面へのサッカーボールキックでほぼ勝負は決まっている。プロレスだと思っていた木村雅彦が油断していたのは間違いない。しかし、力道山にとって、木村政彦に対して「ブック破り」をするならば、100%勝てるという確信がなければしないはずだ。通常のプロレスをしていたとしても、プロモーターは力道山であり、木村政彦に対して優位な立場に立っていたからだ。むしろ「ブック破り」をする動機があったのは木村政彦の方である。つまり、対面していた力道山が確実に倒せると確信を持てるほどの油断を木村政彦はしていたということになる。


結局、木村政彦はこの力道山との一戦を悔やみ続ける。もちろん力道山への恨みはあったと思う。しかし、自分が考えていた武道家のイメージを自らが裏切ってしまったことを悔いていたのだと思う。その意味では、仮に力道山に復讐できたとしても、また、そのことによって力道山より「強い」ということを示すことができたとしても、無防備で力道山の前に立ち、打ち倒されてしまったという事実は消えない。もちろん、力道山への復讐の機会が訪れるはずもない。
この本の前半は、とにかく強かった木村政彦の破天荒な青春譚として楽しむことができる。しかし、プロレスラーになってからの木村政彦の人生を見ていると、あれほどの劇的な形ではなかったかもしれないが、いずれにせよ転落する予感に満ちており、だんだん読み進めるのが辛くなってくる。そして、この一戦に話が至る。それ以降の木村政彦の人生は、まさに余生だった。
これだけの挫折を味わうことになってにせよ、それだけの挫折を味わうほどの高みに登ったということが幸せだったのだろうか。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

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