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「マニフェスト」は意味があるのか

雑感 時事

昨日のエントリー(id:yagian:20120515:1337054347)で、民主的な国民国家における民主制、官僚制、市場機構の関係について考えてみた。
以前から「マニフェスト」には大いに疑問を感じていたのだが、三つの構成要素の役割分担を考えることで、「マニフェスト」の意味のなさがより明確に説明できるように思う。
近代的、現代的な民主制の国民国家において、膨大な管理業務が生じる。これらを担う職員をすべて選挙によって選んだり、また、そのすべてを政治任用で指名するのは明らかに非合理的である。あらかじめ決められたルールに基づき、価値判断とは独立に執行できる領域については、専門家からなる官僚制に委ねるのが合理的だ。合理的、効率的に業務が遂行され、また、政権が交代した場合でも必要な行政機能については継続性が担保される。
もちろん、官僚制による弊害も生じうる。特に、官僚制が独自に価値判断に関わる領域に踏み込むことは危険である。戦前、議会からは独立していた軍部が政治の領域に関与することがよい事例だと思う。
従って、価値判断を要する決断、官僚制が従うべきルールは、民主的な統制ができる主体が担うべきである。実際、民主主義国家においては、法や予算は議会で制定されるし、その他さまざまな方法で官僚制を制御するようになっている。
最近、国会や都道府県知事の選挙において、詳細な政策のプラン「マニフェスト」を提示するようになった。しかし、政党や知事を選択する上で、「マニフェスト」は必要なのか、どこまで判断基準になりうるのか、また、政権、知事の座を獲得した以降、「マニフェスト」にどこまで従うべきなのだろうか。
そもそも、「マニフェスト」のような詳細な計画をあらかじめ立案できる事項は官僚制の領域だと思う。これに対して、決められたルールでは対応できないことがらについて、一定の価値観に基づいて適宜判断を下していくことが民主制を通じて選ばれた政治家の役割ではないのだろうか。
ある政党、政治家に投票するにあたっては、どのような価値観を持っているか知る必要がある。また、適切な判断を下しうる能力があるのか、政策を政治的に実現する能力があるのか、ということも重要な判断基準になる。つまり、「マニフェスト」通りに政治を進めることができなくなったとき、どのような価値観に基づいてどのような判断を下し、その判断の結果を実現しうるのか、ということが政治家の役割だと思う。
民主党が政権を獲得した時の「マニフェスト」は、3.11以降、前提条件が大きく変わってしまったのだから、それを遵守する意味はないと思う。問題は、民主党としての基本的な価値観に基づき、現在の状況に対してどのように対処するのか、ということである。
マニフェスト」は、イギリスからアイデアを得ているのだと思う。しかし、イギリスでは政党の官僚制化が進んでおり、政党自身に詳細な政策を立案するスタッフを擁している。しかし、日本の政党は、小選挙区制の導入と政党助成金によって官僚制化が進みつつあるとはいえ、基本的には比較的独立性が高い国会議員の寄合世帯という性格が強い。そもそも、政党によって実現性が高い「マニフェスト」を作成できるのか疑問である。
選挙においては、基本的な価値観、改革すべき重要な論点に関するアジェンダの提示、後は、首相もしくは知事となる「人」を見ることができればよく、就任した後に官僚制を最大限に活用して基本的な価値観を実現する計画を策定すればよい。国政であれば予算や法律、都道府県であれば予算、条例、総合計画の形で政策が表現される。
ネット上で政治任用に関する議論をまとめたわかりやすい資料(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumuinkaikaku/forum/h191012/pdf/siryou06.pdf)を見つけた。そのなかで、「各国ごとに異なる政治システム等を捨象して外形のみを取り出し、わが国に当てはめて議論することは危険」と書かれているが、まったくその通りである。日本の政治システムを変えるためには小選挙区制への移行は急所だったけれど、マニフェストは枝葉である。政権交代可能な政党が成熟し、自らマニフェストを作る体制が整えば作ればよいが、現状ではそのような体制が構築されている政党はないだろう。
各党マニフェストへのリンク(http://www.election.co.jp/manifest/)