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鏡としてのオウム真理教

昨日、NHKスペシャルオウム真理教」(http://goo.gl/p6qGX)の前半を見た。オウム真理教は、けっして特殊な存在ではなく、国家や宗教のグロテクスな縮図であり、彼らのことを考えることが国家や宗教を考えることに繋がると思う。
カルトが日本社会を破壊し自らの支配を確立するために、殺人を犯し、さまざまな兵器を製造し、テロを実行した。確かに「普通」の人々や「普通」の団体はそのようなことをすることはないから、「特異」に見える。しかし、「普通」の国家は、軍隊という組織的な暴力機関を所有し、他国に対して、また、場合によっては自国の国民に対して殺人、虐殺を実行する。オウム真理教は、日本という成熟した国民国家のなかで一種の国家内国家を作り上げ、日本という国家に対峙したという意味で「特異」(唯一の事例ではないが)であるけれど、国家ということの本質を考える上で一つの格好なモデルとなると思う。
NHKスペシャルの再現ドラマなかで、NHKの記者がオウム真理教の元信者に対して「仮に麻原に命じられたらサリン事件の実行犯になったのか」と質問する部分がある。NHKの記者は自分は安全地帯にいて、そこからオウム真理教の元信者を詰問していたけれど、よく考えてみればオウム信者でなくともけっして安全地帯にいる訳ではない。日本という国家も自衛隊という名の軍隊を持ち、戦争をする可能性はある。だから、「仮に徴兵され発砲を命じられたら、人に向かって発砲するのか」という問いを自分に向けて見る必要があるだろう。私自身は、日露戦争の時代に反戦論を貫き、最後には大逆事件で処刑された幸徳秋水のようにそれを拒否する自信はない。
オウム真理教は、自らの団体に都合の悪い人を「ポア」させることが、むしろその人たちの救済になるという理論で殺人、テロを実行した。戦前の日本は、ヨーロッパの植民地支配から解放し、八紘一宇を実現することがそれらの国、地域の人たちの「救済」になるという理論で侵略をした。また、アメリカは、世界平和のためにファシズム国家と第二次世界大戦を戦い、そのために大都市への無差別爆撃をし、原子爆弾を投下した。(「今も昔も」(id:yagian:20120414:1334381940))たしかに、オウム真理教の「理論」は短絡的でグロテスクである。しかし、国家もそれとほとんど同じ形式の「理論」で大量虐殺をすることがある。国家に属し、庇護されている以上、自分もその主体になる可能性があることは否定できない。番組の中で麻原が村井に対して第二次世界大戦での死者数を尋ねるテープが再生されていたが、麻原はオウム真理教暴力装置を持った国家と重ねあわせ考えていたのだと思う。
最近、大杉栄伊藤野枝の本を読んでいる。現代の目から見れば、ごく「当たり前」のことを主張しており、どこが「危険思想」だったのか想像することは難しい。また、日本政府がコミンテルンの浸透を危険視するのは理解できるけれど、アナキストだった大杉栄フェミニストだった伊藤野枝は政府の脅威になる組織に属していたり、作り上げていたわけでもない。常に彼らを尾行、監視していた政府がそのことを知らなかったはずがない。(「アナキストの悲劇」(id:yagian:20120520:1337500825))しかし、彼らは幼い子供とともに虐殺されてしまう。再現ドラマで坂本弁護士一家殺害事件の部分を見ながら、大杉栄のことを思い出していた。その当時は、オウム真理教のような組織が日本全体を覆い尽くしており、大杉栄伊藤野枝がそれに対してごく「当たり前」のことを主張していた。
どうすれば、幸徳秋水大杉栄伊藤野枝坂本弁護士の側に立ち続けることができるのだろうか。
オウム真理教を始めとして、多くのカルトの教義は稚拙で荒唐無稽に見える。外部から見れば、なぜそのような教義を信仰できるのか不思議に思える。しかし、仏教の歴史を見ていると、荒唐無稽さこそが宗教が人びとを惹きつける核心なのではないかとも思う。
私は、ブッダの教えに共感する。その一方で、ブッダの教えは冷徹だと思う。
本来のブッダの教えの核心は、諸行無常諸法無我涅槃寂静に集約できると考えている。すべての存在は変化し続けるものであり、永遠のものはない。また、確固たる主体、自我というものも存在しない。その事実を受け入れられないことによって苦しみが生じるのであり、それを理解し受け入れることで苦しみから逃れることができる。
すべての存在は変化し続けるから、人間は死や病から逃れることはできないし、親しい人との別離も必ず訪れる。手に入れたものはいつ失われてしまうかわからない。「普遍的、永遠の真理はない」ということだけが真理であって、頼るべき指針というものはない。そういう事実を理解し、受け入れることが救済だというが、これがはたして「救済」と言えるのだろうか。
人は安心するために頼るべきよすがを求める。しかし、ブッダはそのようなよすがなどないという。そして、よすがないということを理解することが「救済」だという。たしかに、世界をすなおに観察すればブッダの言うとおりだとも思える。しかし、人間がそのような「救済」に耐えうるものなのだろうか。
私個人の体験から言えば、鬱病になりそれから回復するプロセスで、自分が鬱病であるということを受け入れることがある種の「救済」になりうる、ということが少しだけ理解することができた。しかし、それは簡単なことではないし、鬱病から回復して健康になるということとも違う。「救済」ではあるけれども「治癒」ではない。
ブッダの教えが時として形而上学的、エリート的に感じられる。私のようなごく普通の衆生にとって、ブッダのいう「救済」を「救済」として理解すること、また、その「救済」の希望のなさに耐えうる強さを持つことは非常に難しいように思う。
だから、仏教はブッダの教えから変質していく。
もともと、ブッダのいう「救済」は、自ら世界の実相を理解することでしかない。だから、自ら獲得するしかないことであり、他人を支援することはできるかもしれないけれど、本質的な意味で「救済」することはできない。逆に言えば、自分のことは自分で「救済」するしかなく、他者に「救済」してもらえる可能性はない。
だから、他者を救済できると考える「大乗仏教」はブッダの教えから見れば明らかに逸脱である。しかし、一般の衆生には自らを「救済」する強さに欠け、また、他者からの「救済」を期待するものである。それゆえ、仏教は逸脱し、変質する。
ブッダの時代には宗教的アイコンはなかったようだ。諸行無常の考え方からすれば仏像になんの意味もないだろう。しかし、一般の衆生は礼拝する対象を求める。特殊な修行をすることで秘密の真理に到達することができるという「密教」も、ブッダの教えに反していると思う。ブッダは特殊な修行ではなく、静かに瞑想することで世界の実相を理解でき、特別な秘密の真理などはないと言っていると思う。
オウム真理教の特殊な修行で真理に到達した者は、「悪者」を「ポア(殺害)」することで悪者自身を「救済」できるという考え方は、ブッダの教えからおよそかけ離れている。しかし、このオウム真理教の考え方は、他者に依存することを厳しく禁じるブッダの教えが、仏教の歴史のなかで変質していったその流れの到達点とも言えると思う。オウム真理教は荒唐無稽なカルトだと切り捨てるだけではなく、現代の仏教者に一つの反省を迫っていると思う。
NHKの再現ドラマを見ていて、やはりオウム真理教に惹かれる人たちは、他者に依存していると思う。厳しい言い方をすれば、「真理」というものが実在し、それがごく簡単に(彼ら自身は厳しい修行の結果だと考えていると思うけれど)手に入りうると思っているように見える。
しかし、ブッダはそのような手軽な「真理」などはないと否定している。私もそう思う。結局、この世界には手軽な「真理」も「救済」などなく、「真理」の厳しさに耐えられた強さを身につけた者だけが自らを「救済」することができるのだと思う。そして、その「救済」は、一般の衆生が考えるような優しいものではなく、厳しいものなのだろう。そして、一般の衆生は確かなよるべなどないこの世界でもがき続け、考え続けるしかないのだと思う。
オウム真理教のような、そして、国家主義のようなものに加担しないためには、いや、正確にいうと完全にそこから離れることはできないが、全面的に加担しないようにするには、他者に自分を預けるのではなく、自分でもがき続け、考え続けることをするしかないと思う。
結局、この世界には、完全な救いもなく、完全な真理もなく、しかし、完全な不幸もなく、完全な善もなく、完全な悪もなく、自分は不完全な自分でしかなく、しかし、それを受け入れて生きてくしかなく、そして、それが生きるということだと思う。
また、それに耐える強さを持つことが幸徳秋水大杉栄伊藤野枝の生き方をすることだと思う。

容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別 (平凡社ライブラリー)

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ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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